(629字。目安の読了時間:2分) その頃のみじめな自分のことを考えると、現在の自分の境遇が別人のように幸福に思われた。 月々貰っていた五円の小遣いから、毎日の電車賃と、閲覧券の費用とを引いた残りで、時々食っていた図書館の中の売店の六銭のカツレツや三銭のさつま汁のことまで、頭の中に浮んだ。 あの慎ましかった自分の心持を思うと、その頃の自分が、いとしく思わずにはおられなかった。 昼でも蝙...
(647字。目安の読了時間:2分) 「ああ上野、あそこが唯一のしかも最後の希望だ」彼はもう日が暮れかかっていたにもかかわらず、後へ引っ返した。 あの鉄の三層の階段を、どんなに急いで駆け上ったか、そして、どんなにときめく心と険しい目付とをもって Fine Arts――Sculpture の項を、探ったことだろう。 そこで、運よく本当に運よく Gardener――The Manuscript ...
(590字。目安の読了時間:2分) 五円か六円かの金を、どうにか都合して買えばいいのだと思った。 彼は、そう思いつくと、その足で丸善へ行ってみたが、やっぱり徒労であった。 「その本なら、去年あたり二、三部来ましたが、とっくに売り切れてしまいました。御注文なら、取り寄せます」と、いったが、その頃は戦争の影響で、英国から本を取り寄せるには、少なくとも三、四カ月、長ければ半年もの時間がかかった。...
(613字。目安の読了時間:2分) 電車内へ遺失したものは、一度は必ずあちらへ集まりますから」と前のと違った車掌が、また彼に一縷の望みを伝えてくれた。 誰かに持って行かれたのだという疑いが、だんだん明らかな形を取り出した。 そう思うと、自分の横に座っていた印半纏の男が浚(さら)って行ったのかも知れないと思った。 が、あの男が家へ帰って「希臘彫刻手記」と原稿紙と弁当とを見出して、一体それ...
(674字。目安の読了時間:2分) そんなに、ぼんやりとしていて大切な品物を容易に忘れてしまうようでは、俺は激しい世の中に立っては、とても存在していかれない人間ではあるまいかとさえ思われた。 彼は茫然とした淋しい情ない心持で、まず三田の車庫へ行ってみた。 が、そこにいた監督は「巣鴨の電車ならば、春日町の車庫か、巣鴨の車庫かへ、車掌が届けているでしょう。そんな風呂敷包なら誰も持って行かない...
(639字。目安の読了時間:2分) その六、七百ページを、ことごとく訳し終って、所定の稿料を貰える日は、茫漠としていつのことだか分からなかった。 それでも彼は、勇敢にその仕事を続けていった。 その仕事をするほかには、金の取れる当ては、少しもなかったから、彼は毎日のように、厄介になってる家からは比較的に近い、日比谷の図書館へ行って、翻訳を続けてやった。 その翻訳が、やっと六、七十枚ぐらい...
(647字。目安の読了時間:2分) 大学を出ても、まだ他人の家の厄介になっていて、何らの職業も、見つからないのに、彼の故郷からは、もう早くから、金を送るようにいってきていた。 大学を出さえすれば、すぐにも金が取れるように彼の父や母は思っていた。 またそう思わずには、おられなかったのだろう。 「譲吉が学校を出るまで」という言葉を、彼らは窮乏から来る苦しみを逃れる、唯一のまじないのように思...
(635字。目安の読了時間:2分) 彼が田舎の中学を出て、初めて東京へ来た時、最初に入った公共の建物は、やっぱりあの図書館であった。 本好きの彼にとっては、場所にも人にも、何の馴染みもない東京の中では、図書館がいちばん勝手が分かるようであった。 田舎の中学生にありがちな、東京崇拝に原因しているいろいろな幻影が、東京における実際の建物、文物、風景、人物に接して、ことごとく崩れていってしま...
(599字。目安の読了時間:2分) 譲吉は、上野の山下で電車を捨てた。 二月の終りで、不忍の池の面を撫でてくる風は、まだ冷たかったが、薄暖い早春の日の光を浴びている楓や桜の大樹の梢は、もうほんのりと赤みがかっているように思われた。 ずいぶん図書館へも来なかったなと、譲吉は思った。 図書館でゆっくりと半日を暮し得るほどの暇もなかった過去一、二年の生活が、今さらのように振りかえられた。...
(592字。目安の読了時間:2分) 父 (まったく悄沈として腰をかけたまま)のたれ死するには家は要らんからのう……(独言のごとく)俺やってこの家に足踏ができる義理ではないんやけど、年が寄って弱ってくると、故郷の方へ自然と足が向いてな。 この街へ帰ってから、今日で三日じゃがな。 夜になると毎晩家の前で立っていたんじゃが、敷居が高うて入れなかったのじゃ……しかしやっぱり入らん方がよかった。...