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譲吉は、上野の山下で電車を捨てた。 二月の終りで、不忍の池の面を撫でてくる風は、まだ冷たかったが、薄暖い早春の日の光を浴びている楓や桜の大樹の梢は、もうほんのりと赤みがかっているように思われた。 ずいぶん図書館へも来なかったなと、譲吉は思った。 図書館でゆっくりと半日を暮し得るほどの暇もなかった過去一、二年の生活が、今さらのように振りかえられた。 それと同時に、そうした繁劇な生活からやっと逃れることができて、暢気に図書館へでも来られるようになった現在の境遇を喜ばずにはおられなかった。 もう一、二年も来なかったかも知れない。 いや職業を得てからは、一度も来なかったかも知れないと、彼は思った。 兎の耳のように、ひっそいだように突っ立っている白い建物、安定を保っているようで、そのくせ今にも落ちかかりそうに思われるあの白煉瓦の建物にも、長い間足踏みもしないなと思った。 図書館のことを考え出すと、彼はその中で過したいろいろな時代の自分の姿が、ひっきりなしに頭の中に浮んできた。 彼が、初めて東京へ出てきてから、六、七年間の、暗いみじめな学生生活のどの時代のことを考えても、あの図書館の中で暮した半日なり一日なりの有様が、はっきりと頭のうちに、浮んでこないことはない。 彼が田舎の中学を出て、初めて東京へ来た時、最初に入った公共の建物は、やっぱりあの図書館であった。
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