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その六、七百ページを、ことごとく訳し終って、所定の稿料を貰える日は、茫漠としていつのことだか分からなかった。 それでも彼は、勇敢にその仕事を続けていった。 その仕事をするほかには、金の取れる当ては、少しもなかったから、彼は毎日のように、厄介になってる家からは比較的に近い、日比谷の図書館へ行って、翻訳を続けてやった。 その翻訳が、やっと六、七十枚ぐらいでき上った頃だろう。 ある日のこと、彼は例の「希臘彫刻手記」と原稿紙と弁当とを、一緒に包んだ風呂敷を提げて、日比谷の図書館へ行ったが、図書館へ行って、仕事に取りかかる前の一休みにと、その日の新聞を読んでいたときに、ふと自分が提げてきたはずの風呂敷包が無いのに気がついた。 彼は、おどろいて身のまわりを探し回った。 が、彼の座席にも新聞閲覧室のどこにも見当らなかった。 よく気を落着けて考えてみると、電車から降りるときに、もうあの包を持っていなかったのに気がついた。 電車に乗る時に買った新聞を読む時に風呂敷包が邪魔になったので、自分の背と車台の羽目板の間に置いたことに気がついた。 内幸町であわてて降りた時に、すっかり忘れてしまったのだと思った。 彼は、その場合にそれほど大切な品物をぼんやり忘れてしまう自分の腑甲斐なさがしみじみと情なかった。 そんなに、ぼんやりとしていて大切な品物を容易に忘れてしまうようでは、俺は激しい世の中に立っては、とても存在していかれない人間ではあるまいかとさえ思われた。
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