(660字。目安の読了時間:2分) そしてはっきりした声で 「それはお前の考えちがいですよ、あんないやらしい諍(いさか)いはわたしだちは今日はじめてしたんですよ、それをお前が見たことがあるなんてことはありません。」 「いえ、いえ、わたしずっと古くに、そう、まだ何んだか知らないときに見たことがありますの。」 母親は黙って娘のくちをふさごうとした。 娘はその手を払い退けようとあせりながら...
(650字。目安の読了時間:2分) 娘は自分のすぐ顔のちかくに、父と母との顔をこんなにまで近く、しかも訝(いぶか)しく眺めたことがなかった。 かれらが互いに何かの変化がその表情にないかという問いを、娘が再び頭のなかで働かしたときに、思いがけない母親の眼を見た。 それは父親に対って何かを咎(とが)めているようなけわしい色をしていた。 ――そして父親は父親でまだ見たこともない悲しげな眼色を...
(676字。目安の読了時間:2分) わたしだちの眠っている間に、――ひどいわ、そんなことを為すっちゃ――。」 眠元朗はあたまを掻いて、娘の手の甲をぴちゃぴちゃ叩きながら微笑った。 「そりゃお父さんがわるかった、まあ、がまんして呉れ。」 眠元朗は娘の肩ごしに、ふと女を見た。 そのとき何年にも見たことがない――そう、ずっと古くに見たことのある女の顔が、いつの間にか今の表情に入れかわって...
(650字。目安の読了時間:2分) 一さいのものはその心をも静まらせ、ただ曇色ある空を仰ぎ見るような安らかなぼんやりした時のもとに過ぎて行くのみだった。 眠元朗はふと女が同じ腰樹けに坐って眠っている顔をみると、いつものように穏やかな気もちになることを感じた。 拘泥のないはればれした快活さが、その女の眠っている間には必らず湧き上ってくる感情だった。 かれは窃と腰掛を離れ渚の方へ向いて歩き...
(666字。目安の読了時間:2分) …かげとそれにつづいた月明の夜と、そうして交る交るに囁(ささや)いていた三つの心と、それより外のものは何一つ見当らない――かれらがどうして此処ところに住んでいるかということ、それが何時から始められているかということは、ほとんど朧(おぼろ)げな記憶を過っても、なお夢見ごこちだとしか考えられないのである。 ――かれらは或る時ふいに別々な三人が寄り集っているので...
(738字。目安の読了時間:2分) ――そのとき娘はぼんやりした夢のなかを彷徨(ほうこう)するような父親のこえを聞いた。 「お前はお父さんを好いているだろうね。」 娘はそのこえを恰(あたか)も遠方からでも聞いているような気がして、一そう父親が悲しげに思われた。 「ええ。」 眠元朗はしばらくしてから、舟が湖心に漂うていることに気がついた。 ――娘もいまは紫色をした島影が、舟の上を半...
(667字。目安の読了時間:2分) 「お父さま、なぜお母さまはあの村のことを話すると、あんなに寂しい顔をなさるのでしょうかね。」 娘は父の膝の上に手を置いて、うっとりと村の方に見とれながら言った。 ――が、父親の返辞がないので、何心なくふりかえって見ると、眠元朗は悒悒(ゆうゆう)した眼で何か考え深んでいるらしかった。 ――その眼の表情はいつか母親の眼の上にもあった表情だ。 娘はこのふ...
(621字。目安の読了時間:2分) 娘はそう母親を呼びかけて、「わたしあの村へ行って見たい気がしますの。」と瞳をいきらせて言った。 が、母親の返辞は意外にも娘の耳もとに、曾(か)つて聞いたことがないほど冷たくむしろ意地悪くきこえた。 「いいえ、あそこへ行ってはなりません。あそこはお前のような綺麗な心を有っているものの行くところではありません。」 「どうしてでしょう。――それに、わたし...
(664字。目安の読了時間:2分) 娘はつとめて微笑おうとしたが、なぜか窮屈な硬ばりをおのれの顔にかんじた。 ――父はかならず自分の微笑いがおを見ることを望んでいるだろうと思ったが、やはり微笑えなかった。 しばらくしてから、弱々しい娘の顔はもとのように晴れかかってすこしの曇りのない色に戻った。 父はそれを静乎と眺めていたが、やっと落着いてそして娘に言った。 「お父さんは何も分らない...
(617字。目安の読了時間:2分) 娘はそういうと黙っている眠元朗をかえり見た。 眠元朗は心のかたくななのに暫らく沈みこんでいた。 「お父さまがお喜びになるなら、わたしお父さまが好きだと言ってもいいわ。」 眠元朗は返辞をしないで、桃花村のある島の向うに眼を漂わせていた。 それは娘の返辞のそれから鬱ぎ込んだのではなく、きゅうにやはり詰らない退屈さと所詮なささが、唐突にかれを心から脅...