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――そのとき娘はぼんやりした夢のなかを彷徨(ほうこう)するような父親のこえを聞いた。 「お前はお父さんを好いているだろうね。」 娘はそのこえを恰(あたか)も遠方からでも聞いているような気がして、一そう父親が悲しげに思われた。 「ええ。」 眠元朗はしばらくしてから、舟が湖心に漂うていることに気がついた。 ――娘もいまは紫色をした島影が、舟の上を半ば覆うているのを幾らか冷やりとした気もちの上に感じた。 それと同時に眠元朗の耳もとをつんざいた女の声があった。 しかも遠くから湖面をつたうてくる声だった。 ――娘は渚の方へ向いて、そして始めて驚いた声を上げた。 「お母さまが呼んでいらっしゃる――。」 眠元朗は娘と同じ方向に眼を遣ったが、しかし落着いた声で言った。 「母さまは寂しいことはないだろう――。」 父親は棹をとろうとしなかった。 が、娘は棹を父にもたした。 「舟をもどしてくださいな。」 そういう娘の瞳は、渚に立つ母親の方へ動かずに凝らされていた。 眠元朗はその娘の瞳を悲しげに眺め、なかば諦めたような顔つきをして、ぐいと、水馴棹を立てると、大きな島影は石油色をした虹のような小波を立てて、ゆらりとその静かな影を揺れくずし初めた。 二 一たい此処はどういうところであろうか、湖と島と、それを隔てた桃花村と、いつも曇色ある日かげとそれにつづいた月明の夜と、そうして交る交るに囁(ささや)いていた三つの心と、それより外のものは何一つ見当らない――かれらがどうして此処ところに住んでいるかということ、それが何時から始められているかということは、ほとんど朧(おぼろ)げな記憶を過っても、なお夢見ごこちだとしか考えられないのである。
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