(620字。目安の読了時間:2分) かれらが卓子に向い合っても、徒らに静かな夜はゆっくりと目に立たぬ程度で廻転っているらしかった。 「わたしだちは此処に何時まで居なければならないんでしょうか、わたしは心まで遠くにあるような気がしますの。」 女はそういうと身体を灯のかげから起した。 「お前も退窟しているな、だが、どうにもならないのだ。こうして何時までも居なければならないのだろう。それが...
(636字。目安の読了時間:2分) が、つぎの一瞬にはきわめて穏やかにかれは娘の肩をなでた。 そしてしっかり小さいからだを抱いた。 「お前は父さん一人を置いてきぼりにしないでくれ。見なさいお父さんはこんな道を歩くのにも胸がさわいで苦しくなってくるのだ。」 娘の手のひらには、そうぞうしい或る雑音が心臓から感じられた。 そして烈しい息切れがした。 ――娘はふと何気なく父の顔を目に入れ...
(649字。目安の読了時間:2分) 紫と灰色との縞状の色合いを曳いた砂原には、その家以外に何一つ明りらしいものがなかった。 「お前は自分を美しいとでも思って、それゆえああして影をうつして話をしているのかね、お前にはわたしや母親がいるではないか。」 眠元朗は黙っている娘が、すき間さえあれば父と母との目から離れて行って、そして何かひとりで考えごとをしているのを思い当てて、物に躓(つまず)いた...
(627字。目安の読了時間:2分) ――全くそれは女の姿であった。 彼女はうしろ向きになって、髪をすきながら己が姿をこの清い水たまりに映していた。 その白い頸首にも、その露き出した肘さきにも、まんまるい処女らしい円みとほたほたする肉附があった。 灰色めいた明りはうすいながらも、その女の姿を水の上にうつすには充分で、何か夜のうちに咲いてしまう重い白いたわわな花のように見えた。 ――かれ...
(677字。目安の読了時間:2分) その瞬間であった、或る三角形に引裂れた紙片のようなもののなかに、かれはかれのいた遠い世の雑音と白い多くの建物の町のつらなりが、さまざまな旗や色彩の濃い看板とともに、ちょうど古い都会の見取図のように目にうつった。 「あれらは決して夜ではない――あれらほど正確なものはなかったに違いない。」 かれの眼底にはなお紙片は去らずに、その青い窓のある家々の扉を開いて...
(722字。目安の読了時間:2分) ――眠元朗は退窟と倦怠とをなお二重にとり廻したようなこの晩景のなかに、しかもなお索漠たる砂上を踏んで歩いていると、おのれの変り果てた姿をもう一度ふりかえって見て、しかもどうにもならない微笑が浮んでくることを感じた。 ――眠元朗はいまさらのように四辺を回顧しながら、寂しい風物の間に、貝殻に耳をあてながら聞くような湖鳴りに幾たびとなく耳を欹(そばだ)てた。 ...
(677字。目安の読了時間:2分) 「話して下さいな――おねがいでございますから。」 しかし二人は黙っていた。 そして娘の胸の上が低くなったり高くなったりするのを凝乎として眺めていた。 かれらは気むずかしく哀しげな容子を、ドアのそとから忍び込む光が間もなく卓子の脚にまでとどくまでつづけていたのである。 三 あらゆるものは静かな一色の灰色でなければ、それを一そう濃くしたような仄白い...
(636字。目安の読了時間:2分) 父親もその手を娘の胸の上に置いた。 何という匂い深く謹んだ花のような息づかいであったろう――眠元朗は掌につたわる息づかいを一弁ずつほぐれる花にも増して、やさしく心悲しく感じた。 「お父さま、聞えて……。」 「あ、きこえる。」 母親はあちらむきになって、唏(な)きながらいた。 なぜか彼女には目の前にずり落ちて来た世界が、煉瓦や白い建物や町や、彼女...
(682字。目安の読了時間:2分) 「それは何も彼もすっかりこの世間のことが新しくなって、わたしだちは何時の間にか三人きりになってしまったときにも、やはりわたしだちは種々なことを考えなければならなかったことに気が付いたんですもの――お父さまだってむかしと渝(かわ)らない、渝ったものはこんな湖べりに来ただけですもの。」 娘は幾度も頭をかたげていたが、夢を半分切りぬいたように何も彼もわからない...
(705字。目安の読了時間:2分) 二人は肩をならべ歩き出したときに、眠元朗も立ちあがった。 そして先きになった二人の姿を目に入れた。 が、別に趁(お)うこともしなかったが、かれらの歩いた砂の上の足あとを、一つは大きく一つは小さい優しい足音を、己れのそれに踏みあてとぼとぼと歩いて行った。 小さい見すぼらしい灰褐色のみで造られたような家――に、なお灰色の釣らんぷが卵黄のようにぼやけて灯...