(600字。目安の読了時間:2分) 襟のかかった渋い縞(しま)お召に腹合わせ帯をしめて、銀杏返しに結って居る風情の、昨夜と恐ろしく趣が変っているのに、私は先ず驚かされた。 「あなたは、今夜あたしがこんな風をして居るのは可笑しいと思っていらッしゃるんでしょう。それでも人に身分を知らせないようにするには、こうやって毎日身なりを換えるより外に仕方がありませんからね。」 卓上に伏せてある洋盃を起し...
(526字。目安の読了時間:2分) 再びざらざらした男の手が私を導きながら狭そうな路次を二三間行くと、裏木戸のようなものをギーと開けて家の中へ連れて行った。 眼を塞がれながら一人座敷に取り残されて、暫く座っていると、間もなく襖(ふすま)の開く音がした。 女は無言の儘(まま)、人魚のように体を崩して擦り寄りつつ、私の膝の上へ仰向きに上半身を靠(もた)せかけて、そうして両腕を私の項に廻して羽二...
(576字。目安の読了時間:2分) しめっぽい匂いのする幌(ほろ)の上へ、ぱらぱらと雨の注ぐ音がする。 疑いもなく私の隣りには女が一人乗って居る。 お白粉の薫りと暖かい体温が、幌の名へ蒸すように罩(こも)っていた。 轅(かじ)を上げた俥は、方向を晦(くら)ます為めに一つ所をくるくると二三度廻って走り出したが、右へ曲り、左へ折れ、どうかすると Labyrinth の中をうろついて居るようで...
(617字。目安の読了時間:2分) 夥(おびただ)しい雨量が、天からざあざあと直瀉する喧囂(けんごう)の中に、何もかも打ち消されて、ふだん賑(にぎ)やかな広小路の通りも大概雨戸を締め切り、二三人の臀端折りの男が、敗走した兵士のように駈(か)け出して行く。 電車が時々レールの上に溜(た)まった水をほとばしらせて通る外は、ところどころの電柱や広告のあかりが、朦朧たる雨の空中をぼんやり照らしている...
(562字。目安の読了時間:2分) 其処にて当方より差し向けたるお迎いの車夫が、必ず君を見つけ出して拙宅へご案内致す可く候。 君の御住所を秘し給うと同様に、妾も今の在り家を御知らせ致さぬ所存にて、車上の君に眼隠しをしてお連れ申すよう取りはからわせ候間、右御許し下され度、若しこの一事を御承引下され候わずば、妾は永遠に君を見ることかなわず、これに過ぎたる悲しみは無之候。 私はこの手紙を読んで行...
(574字。目安の読了時間:2分) 大分昔よりは年功を経ているらしい相手の力量を測らずに、あのような真似をして、却って弱点を握られはしまいか。 いろいろの不安と疑惧に挟まれながら私は寺へ帰った。 いつものように上着を脱いで、長襦袢一枚になろうとする時、ぱらりと頭巾の裏から四角にたたんだ小さい洋紙の切れが落ちた。 「Mr. S. K.」 と書き続けたインキの痕をすかして見ると、玉甲斐絹の...
(579字。目安の読了時間:2分) こう思うと、抑え難い欲望に駆られてしなやかな女の体を、いきなりむずと鷲掴(わしづか)みにして、揺す振って見たくもなった。 君は予の誰なるかを知り給うや。 今夜久しぶりに君を見て、予は再び君を恋し始めたり。 今一度、予と握手し給うお心はなきか。 明晩もこの席に来て、予を待ち給うお心はなきか。 予は予の住所を何人にも告げ知らす事を好まねば、唯願わくは明...
(553字。目安の読了時間:2分) 男と対談する間にも時々夢のような瞳を上げて、天井を仰いだり、眉根を寄せて群衆を見下ろしたり、真っ白な歯並みを見せて微笑んだり、その度毎に全く別趣の表情が、溢れんばかりに湛(たた)えられる。 如何なる意味をも鮮やかに表し得る黒い大きい瞳は、場内の二つの宝石のように、遠い階下の隅からも認められる。 顔面の凡べての道具が単に物を見たり、嗅いだり、聞いたり、語っ...
(638字。目安の読了時間:2分) あの時分やや小太りに肥えて居た女は、神々しい迄(まで)に痩せて、すッきりとして、睫毛の長い潤味を持った円い眼が、拭うが如くに冴(さ)え返り、男を男とも思わぬような凜々(りり)しい権威さえ具えている。 触るるものに紅の血が濁染むかと疑われた生々しい唇と、耳朶の隠れそうな長い生え際ばかりは昔に変らないが、鼻は以前よりも少し嶮(けわ)しい位に高く見えた。 女は...
(604字。目安の読了時間:2分) の薫りの高い烟を私の顔に吹き附けながら、指に篏(は)めて居る宝石よりも鋭く輝く大きい瞳を、闇の中できらりと私の方へ注いだ。 あでやかな姿に似合わぬ太棹の師匠のような皺嗄(しわが)れた声、―――その声は紛れもない、私が二三年前に上海へ旅行する航海の途中、ふとした事から汽船の中で暫く関係を結んで居たT女であった。 女はその頃から、商売人とも素人とも区別のつか...