(576字。目安の読了時間:2分) ここに勤めてから、もうかれこれ一箇年以上になりますが、日ましに自分がくだらないものになって行くような気がして、実に困っているのです。 私があなたの小説を読みはじめたのは、横浜の軍需工場で事務員をしていた時でした。 「文体」という雑誌に載っていたあなたの短い小説を読んでから、それから、あなたの作品を捜して読む癖がついて、いろいろ読んでいるうちに、あなたが...
(474字。目安の読了時間:1分) 拝啓。 一つだけ教えて下さい。 困っているのです。 私はことし二十六歳です。 生れたところは、青森市の寺町です。 たぶんご存じないでしょうが、寺町の清華寺の隣りに、トモヤという小さい花屋がありました。 わたしはそのトモヤの次男として生れたのです。 青森の中学校を出て、それから横浜の或る軍需工場の事務員になって、三年勤め、それから軍隊で四年...
(547字。目安の読了時間:2分) あのコップは別に大したものじゃなかったんだろうね。」 翌朝になると、天気は恢復した。 僕等が停車場へ馬車を駆った時には、水色の夏空が頭上に笑っていた。 告別は短かかった。 僕が幸福を祈ると、くれぐれも幸福を祈ると、彼は黙って僕の手を握った。 胸を張って、大きな展望窓に立っている彼の姿を、僕は長い間、見送っていた。 彼の眼には、深いまじめさが...
(572字。目安の読了時間:2分) 僕等は今日もまた長い間、感歎しながら、この美しくも雄渾な群像を眺めつくしていた。 それはたえず真青な閃光を浴びるので、なんだか不可思議なもののような感じがした。 僕の連れはいった。 「まったくだ。ベルニニなら、その弟子の作でもたまらなくいいね。敵があるなんて、僕にはわからないよ。――そりゃ、もしあの最後の審判が、絵よりも彫刻に近いとすれば、ベルニニの...
(642字。目安の読了時間:2分) そしてもしも――これは腹蔵なき謙虚な問であります――貴兄においても、敬愛するホフマン兄よ、また同じ御事情であるならば、然らば小生等両親は、今後わが子の幸福の邪魔はすまいと思っていることを、小生はここに貴兄にむかって言明いたします。 お返事をお待ちしています。 どんな意味のお返事であろうと、小生は大いに感謝するでしょう。 そしてこの手紙には、衷心からの...
(647字。目安の読了時間:2分) なぜ小生が――これはいくら強調しても足りないのですが――あらゆる点で大いに尊敬している人に、自分の娘を上げるのをおことわりせねばならぬかというわけを、小生は腹蔵なく正直に、残酷と思われる危険を冒してまでも、貴兄にお伝えしました。 それからまた、一人娘の恒久の幸福を念頭に置いていて、もしも娘が例の願望の可能性を考えるようなことでもあったら、双方におけるその願...
(606字。目安の読了時間:2分) やがて、くるりと振り返ると、僕に一通の手紙を差し出して、ただ一言いった。 「読んで見ろよ。」 僕は彼の顔を見た。 黒い、熱に燃えた眼のある、この細い黄ばんだ病人らしい顔には、だいたい死だけが呼び起し得るような表情――すさまじい厳粛さが浮かんでいた。 それが僕の眼を、受け取った手紙の上に落させてしまった。 そして僕は読んだ―― 『敬愛するホフマン...
(595字。目安の読了時間:2分) ――なにかに支えられているんだね。はっと起き直って、なにかを考える。ある文句にかじりついて、それを二十ぺんも繰り返す。そのあいだ僕の眼は、廻りにあるいっさいの光と命とを、むさぼるように吸い込む……僕のいうことがわかるかい。」 彼は凝然と横たわっていて、ほとんど、返事なぞを予期してはいないらしい。 その時なんと答えたか、僕はもう忘れてしまった。 しかし...
(580字。目安の読了時間:2分) 『どうしてあなたが、そういつまでも旅行して廻れるんだか、さっぱりわかりませんな。 悪いことはいわないから、国へ帰って寝床につきたまえ』ってね。 その医者は毎晩僕と一緒に、ドミノをやっていたもんだから、それでいつもそんなに遠慮がなかったんだよ。 「僕はやっぱり依然として生きている。 が、ほとんど毎日のようにだめになるんだ。 晩、まっくらな中に横になっ...
(617字。目安の読了時間:2分) 僕等は美しい晩夏の朝に乗じて、アッピア街道に散策を試み、この古代的な往還を、ずっと郊外までたどって行った後、糸杉の樹立にかこまれた、小さな丘の上で休んだ。 丘からはあの大溝渠のある、明るいカムパニアと、柔かいもやに包まれたアルバノの山々とが、実に美しく見渡された。 パオロは半分横になって、あごを手で支えたなり、僕と並んで暖かい草生にいこいながら、ものう...