ブンゴウメール (707字。目安の読了時間:2分) その上私には、道を歩きながら瞑想に耽る癖があった。 途中で知人に挨拶されても、少しも知らずにいる私は、時々自分の家のすぐ近所で迷児になり、人に道をきいて笑われたりする。 かつて私は、長く住んでいた家の廻りを、塀に添うて何十回もぐるぐると廻り歩いたことがあった。 方角観念の錯誤から、すぐ目の前にある門の入口が、どうしても見つからなかった...
ブンゴウメール (736字。目安の読了時間:2分) と言ってしまえば、もはやこの上、私の秘密について多く語る必要はないであろう。 ただ私の場合は、用具や設備に面倒な手数がかかり、かつ日本で入手の困難な阿片の代りに、簡単な注射や服用ですむモルヒネ、コカインの類を多く用いたということだけを附記しておこう。 そうした麻酔によるエクスタシイの夢の中で、私の旅行した国々のことについては、此所に詳し...
ブンゴウメール (651字。目安の読了時間:2分) 蠅を叩きつぶしたところで、蠅の「物そのもの」は死にはしない。 単に蠅の現象をつぶしたばかりだ。 ―― ショウペンハウエル。 [#改ページ] 1 旅への誘いが、次第に私の空想から消えて行った。 昔はただそれの表象、汽車や、汽船や、見知らぬ他国の町々やを、イメージするだけでも心が躍った。 しかるに過去の経験は、旅が単なる「同一...
ブンゴウメール (615字。目安の読了時間:2分) どうしたら一体、人目を忍んだり、人に嘘をついたり、別々の町に住んだり、久しく会わずにいなければならないような境涯から、抜け出すことができるだろうかということを語り合った。 どうしたらこの堪えきれぬ枷からのがれることが出来るだろうか? 「どうしたら? どうしたら?」と彼は、頭をかかえて訊くのだった。 「どうしたら?」 すると、もう少...
ブンゴウメール (751字。目安の読了時間:2分) そしてどの女にせよ、彼と結ばれて幸福だった女は一人もないのだった。 時の流れるままに、彼は近づきになり、契りをむすび、さて別れただけの話で、恋をしたことはただの一度もなかった。 ほかのものなら何から何までそろっていたけれど、ただ恋だけはなかった。 それがやっと今になって、頭が白くなりはじめた今になって彼は、ちゃんとした本当の恋をした...
ブンゴウメール (664字。目安の読了時間:2分) これでも二人の生活が破滅していないと言えるだろうか? 「さ、もうおやめ!」と彼は言った。 この二人の恋がまだそう急にはおしまいにならないことは、彼にははっきり見えていた。 何時という見当もつかないのだ。 アンナ・セルゲーヴナはますますつよく彼に結ばれて来て、彼を心から崇拝していたから、その彼女に向かってこれもすべていつかは終末を...
ブンゴウメール (762字。目安の読了時間:2分) で彼は己れを以て他人を測って、目に見えるものは信用せず、人には誰にも、あたかも夜のとばりに蔽われるように秘密のとばりに蔽われて、その人の本当の、最も興味ある生活が営まれているのだと常々考えていた。 各人の私生活というものは秘密のおかげで保っているのだが、恐らく一つにはそのせいもあって教養人があれほど神経質に、私行上の秘密を尊重しろと騒ぎ立...
ブンゴウメール (716字。目安の読了時間:2分) 娘も一緒に連れだっていたが、それはちょうど途中にある学校まで送ってやろうと思ったのだった。 大きなぼたん雪がさかんに降っていた。 「今朝の温度は三度なんだが、でもやっぱり雪が降るねえ」とグーロフは娘に話すのだった。 「でもね、この温かさは地面の表面だけのことで、空気の上の層じゃまるっきり気温が違うんだよ」 「じゃあねパパ、なぜ冬は雷...
ブンゴウメール (683字。目安の読了時間:2分) 「ね、いいこと、ドミートリイ・ドミートリチ? わたしの方からモスクヴァへお目にかかりに行きますわ。わたしは一日だって仕合せだったことはなし、現在も不仕合せだし、これから先だって決して仕合せになりっこはないの、決してないの! この上またわたしを苦しまさせないで下さいまし! 指切りですわ、わたしがモスクヴァへ行きますわ。でも今日はお別れにしまし...
ブンゴウメール (671字。目安の読了時間:2分) と彼女は苦しそうに息をつきながら言った。 いまだに真っ蒼な、あっけにとられたような顔だった。 「ええ、ほんとに人をびっくりさせる方ですわ! わたし生きた心地もないくらい。何だって出掛けていらしたの? なぜですの?」 「でも察してください、アンナ、察して……」と彼は小声で、急きこんで言った。 「後生だから察して……」 彼女は恐怖と...