(322字。目安の読了時間:1分) 「どうぞ」と一言答えたる、夫人が蒼白なる両の頬(ほお)に刷けるがごとき紅を潮しつ。 じっと高峰を見詰めたるまま、胸に臨めるナイフにも眼を塞がんとはなさざりき。 と見れば雪の寒紅梅、血汐は胸よりつと流れて、さと白衣を染むるとともに、夫人の顔はもとのごとく、いと蒼白くなりけるが、はたせるかな自若として、足の指をも動かさざりき。 ことのここ...
(318字。目安の読了時間:1分) 医学士は取るとそのまま、靴音軽く歩を移してつと手術台に近接せり。 看護婦はおどおどしながら、 「先生、このままでいいんですか」 「ああ、いいだろう」 「じゃあ、お押え申しましょう」 医学士はちょっと手を挙げて、軽く押し留め、 「なに、それにも及ぶまい」 謂う時疾くその手はすでに病者の胸を掻(か)き開けたり。 夫...
(286字。目安の読了時間:1分) 切ってもいい」 決然として言い放てる、辞色ともに動かすべからず。 さすが高位の御身とて、威厳あたりを払うにぞ、満堂斉しく声を呑(の)み、高き咳(しわぶき)をも漏らさずして、寂然たりしその瞬間、先刻よりちとの身動きだもせで、死灰のごとく、見えたる高峰、軽く見を起こして椅子を離れ、 「看護婦、メスを」 「ええ」と看護婦の一人は、目を※(...
(322字。目安の読了時間:1分) 単に、医師の命をだに奉ずればよし、あえて他の感情を顧みることを要せざるなり。 「綾! 来ておくれ。あれ!」 と夫人は絶え入る呼吸にて、腰元を呼びたまえば、慌てて看護婦を遮りて、 「まあ、ちょっと待ってください。夫人、どうぞ、御堪忍あそばして」と優しき腰元はおろおろ声。 夫人の面は蒼然として、 「どうしても肯きませんか。それじゃ...
(330字。目安の読了時間:1分) でもちっともかまいません」 「あんまり大病なんで、どうかしおったと思われる」 と伯爵は愁然たり。 侯爵は、かたわらより、 「ともかく、今日はまあ見合わすとしたらどうじゃの。あとでゆっくりと謂い聞かすがよかろう」 伯爵は一議もなく、衆みなこれに同ずるを見て、かの医博士は遮りぬ。 「一時後れては、取り返しがなりません。いったい...
(366字。目安の読了時間:1分) 「それは夫人、いくらなんでもちっとはお痛みあそばしましょうから、爪をお取りあそばすとは違いますよ」 夫人はここにおいてぱっちりと眼を※(みは)けり。 気もたしかになりけん、声は凛(りん)として、 「刀を取る先生は、高峰様だろうね!」 「はい、外科科長です。いくら高峰様でも痛くなくお切り申すことはできません」 「いいよ、痛かあない...
(306字。目安の読了時間:1分) 「何を、姫を連れて来い」 夫人は堪らず遮りて、 「綾、連れて来んでもいい。なぜ、眠らなけりゃ、療治はできないか」 看護婦は窮したる微笑を含みて、 「お胸を少し切りますので、お動きあそばしちゃあ、危険でございます」 「なに、わたしゃ、じっとしている。動きゃあしないから、切っておくれ」 予はそのあまりの無邪気さに、覚えず森寒...
(362字。目安の読了時間:1分) …という、極まったこともなさそうじゃの」 「いいえ、このくらい思っていれば、きっと謂いますに違いありません」 「そんな、また、無理を謂う」 「もう、御免くださいまし」 投げ棄つるがごとくかく謂いつつ、伯爵夫人は寝返りして、横に背かんとしたりしが、病める身のままならで、歯を鳴らす音聞こえたり。 ために顔の色の動かざる者は、ただあ...
(384字。目安の読了時間:1分) この言をしてもし平生にあらしめば必ず一条の紛紜を惹(ひ)き起こすに相違なきも、病者に対して看護の地位に立てる者はなんらのこともこれを不問に帰せざるべからず。 しかもわが口よりして、あからさまに秘密ありて人に聞かしむることを得ずと、断乎として謂い出だせる、夫人の胸中を推すれば。 伯爵は温乎として、 「わしにも、聞かされぬことなんか。え、奥...
(341字。目安の読了時間:1分) うとうとあそばすと、すぐ済んでしまいます」 このとき夫人の眉は動き、口は曲みて、瞬間苦痛に堪えざるごとくなりし。 半ば目を※(みは)きて、 「そんなに強いるなら仕方がない。私はね、心に一つ秘密がある。痲酔剤は譫言を謂(い)うと申すから、それがこわくってなりません。どうぞもう、眠らずにお療治ができないようなら、もうもう快らんでもいい、よし...