(303字。目安の読了時間:1分) 伯爵は前に進み、 「奥、そんな無理を謂ってはいけません。できなくってもいいということがあるものか。わがままを謂ってはなりません」 侯爵はまたかたわらより口を挟めり。 「あまり、無理をお謂やったら、姫を連れて来て見せるがいいの。疾くよくならんでどうするものか」 「はい」 「それでは御得心でございますか」 腰元はその間に周旋せ...
(306字。目安の読了時間:1分) 腰元は恐る恐る繰り返して、 「お聞き済みでございましょうか」 「ああ」とばかり答えたまう。 念を推して、 「それではよろしゅうございますね」 「何かい、痲酔剤をかい」 「はい、手術の済みますまで、ちょっとの間でございますが、御寝なりませんと、いけませんそうです」 夫人は黙して考えたるが、 「いや、よそうよ」と謂(...
(312字。目安の読了時間:1分) その顔色はいかにしけん、にわかに少しく変わりたり。 さてはいかなる医学士も、驚破という場合に望みては、さすがに懸念のなからんやと、予は同情を表したりき。 看護婦は医学士の旨を領してのち、かの腰元に立ち向かいて、 「もう、なんですから、あのことを、ちょっと、あなたから」 腰元はその意を得て、手術台に擦り寄りつ、優に膝のあたりまで両...
(327字。目安の読了時間:1分) そのいたく落ち着きたる、これを頼もしと謂(い)わば謂え、伯爵夫人の爾(しか)き容体を見たる予が眼よりはむしろ心憎きばかりなりしなり。 おりからしとやかに戸を排して、静かにここに入り来たれるは、先刻に廊下にて行き逢いたりし三人の腰元の中に、ひときわ目立ちし婦人なり。 そと貴船伯に打ち向かいて、沈みたる音調もて、 「御前、姫様はようようお...
(303字。目安の読了時間:1分) 脣(くちびる)の色少しく褪(あ)せたるに、玉のごとき前歯かすかに見え、眼は固く閉ざしたるが、眉は思いなしか顰(ひそ)みて見られつ。 わずかに束ねたる頭髪は、ふさふさと枕に乱れて、台の上にこぼれたり。 そのかよわげに、かつ気高く、清く、貴く、うるわしき病者の俤(おもかげ)を一目見るより、予は慄然として寒さを感じぬ。 医学士はと、ふと見れ...
(387字。目安の読了時間:1分) 看護婦その者にして、胸に勲章帯びたるも見受けたるが、あるやんごとなきあたりより特に下したまえるもありぞと思わる。 他に女性とてはあらざりし。 なにがし公と、なにがし侯と、なにがし伯と、みな立ち会いの親族なり。 しかして一種形容すべからざる面色にて、愁然として立ちたるこそ、病者の夫の伯爵なれ。 室内のこの人々に瞻(みまも)られ、室外の...
(391字。目安の読了時間:1分) 渠らのある者は沈痛に、ある者は憂慮わしげに、はたある者はあわただしげに、いずれも顔色穏やかならで、忙しげなる小刻みの靴の音、草履の響き、一種寂寞たる病院の高き天井と、広き建具と、長き廊下との間にて、異様の跫音を響かしつつ、うたた陰惨の趣をなせり。 予はしばらくして外科室に入りぬ。 ときに予と相目して、脣辺に微笑を浮かべたる医学士は、両手を...
(318字。目安の読了時間:1分) …これのみならず玄関より外科室、外科室より二階なる病室に通うあいだの長き廊下には、フロックコート着たる紳士、制服着けたる武官、あるいは羽織袴(はかま)の扮装の人物、その他、貴婦人令嬢等いずれもただならず気高きが、あなたに行き違い、こなたに落ち合い、あるいは歩し、あるいは停し、往復あたかも織るがごとし。 予は今門前において見たる数台の馬車に思い合わ...
(427字。目安の読了時間:1分) 上 実は好奇心のゆえに、しかれども予は予が画師たるを利器として、ともかくも口実を設けつつ、予と兄弟もただならざる医学士高峰をしいて、某の日東京府下の一病院において、渠(かれ)が刀を下すべき、貴船伯爵夫人の手術をば予をして見せしむることを余儀なくしたり。 その日午前九時過ぐるころ家を出でて病院に腕車を飛ばしつ。 直ちに外科室の方に赴くと...
(287字。目安の読了時間:1分) 俺の心に憂鬱が完成するときにばかり、俺の心は和んでくる。 ――おまえは腋(わき)の下を拭いているね。 冷汗が出るのか。 それは俺も同じことだ。 何もそれを不愉快がることはない。 べたべたとまるで精液のようだと思ってごらん。 それで俺達の憂鬱は完成するのだ。 ああ、桜の樹の下には屍体が埋まっている! いったいどこか...