(321字。目安の読了時間:1分) 隙間なく水の面を被っている、彼らのかさなりあった翅(はね)が、光にちぢれて油のような光彩を流しているのだ。 そこが、産卵を終わった彼らの墓場だったのだ。 俺はそれを見たとき、胸が衝かれるような気がした。 墓場を発いて屍体を嗜(この)む変質者のような残忍なよろこびを俺は味わった。 この溪間ではなにも俺をよろこばすものはない。 鶯...
(321字。目安の読了時間:1分) 隙間なく水の面を被っている、彼らのかさなりあった翅(はね)が、光にちぢれて油のような光彩を流しているのだ。 そこが、産卵を終わった彼らの墓場だったのだ。 俺はそれを見たとき、胸が衝かれるような気がした。 墓場を発いて屍体を嗜(この)む変質者のような残忍なよろこびを俺は味わった。 この溪間ではなにも俺をよろこばすものはない。 鶯...
(308字。目安の読了時間:1分) 水のしぶきのなかからは、あちらからもこちらからも、薄羽かげろうがアフロディットのように生まれて来て、溪の空をめがけて舞い上がってゆくのが見えた。 おまえも知っているとおり、彼らはそこで美しい結婚をするのだ。 しばらく歩いていると、俺は変なものに出喰わした。 それは溪の水が乾いた磧(かわら)へ、小さい水溜を残している、その水のなかだった。 ...
(365字。目安の読了時間:1分) 桜の根は貪婪な蛸(たこ)のように、それを抱きかかえ、いそぎんちゃくの食糸のような毛根を聚(あつ)めて、その液体を吸っている。 何があんな花弁を作り、何があんな蕊(しべ)を作っているのか、俺は毛根の吸いあげる水晶のような液が、静かな行列を作って、維管束のなかを夢のようにあがってゆくのが見えるようだ。 ――おまえは何をそう苦しそうな顔をしてい...
(307字。目安の読了時間:1分) 俺にはその美しさがなにか信じられないもののような気がした。 俺は反対に不安になり、憂鬱になり、空虚な気持になった。 しかし、俺はいまやっとわかった。 おまえ、この爛漫と咲き乱れている桜の樹の下へ、一つ一つ屍体が埋まっていると想像してみるがいい。 何が俺をそんなに不安にしていたかがおまえには納得がいくだろう。 馬のような屍体、犬...
(391字。目安の読了時間:1分) どうして俺が毎晩家へ帰って来る道で、俺の部屋の数ある道具のうちの、選りに選ってちっぽけな薄っぺらいもの、安全剃刀の刃なんぞが、千里眼のように思い浮かんで来るのか――おまえはそれがわからないと言ったが――そして俺にもやはりそれがわからないのだが――それもこれもやっぱり同じようなことにちがいない。 いったいどんな樹の花でも、いわゆる真っ盛りという...
(307字。目安の読了時間:1分) 桜の樹の下には屍体が埋まっている! これは信じていいことなんだよ。 何故って、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。 俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だった。 しかしいま、やっとわかるときが来た。 桜の樹の下には屍体が埋まっている。 これは信じていいことだ。 どうして俺が毎晩家...
(216字。目安の読了時間:1分) そうだ出て行こう」そして私はすたすた出て行った。 変にくすぐったい気持が街の上の私を微笑ませた。 丸善の棚へ黄金色に輝く恐ろしい爆弾を仕掛けて来た奇怪な悪漢が私で、もう十分後にはあの丸善が美術の棚を中心として大爆発をするのだったらどんなにおもしろいだろう。 私はこの想像を熱心に追求した。 「そうしたらあの気詰まりな丸善も粉葉みじん...
(270字。目安の読了時間:1分) 見わたすと、その檸檬の色彩はガチャガチャした色の階調をひっそりと紡錘形の身体の中へ吸収してしまって、カーンと冴えかえっていた。 私は埃(ほこり)っぽい丸善の中の空気が、その檸檬の周囲だけ変に緊張しているような気がした。 私はしばらくそれを眺めていた。 不意に第二のアイディアが起こった。 その奇妙なたくらみはむしろ私をぎょっとさせた...
(299字。目安の読了時間:1分) 本の色彩をゴチャゴチャに積みあげて、一度この檸檬で試してみたら。 「そうだ」 私にまた先ほどの軽やかな昂奮が帰って来た。 私は手当たり次第に積みあげ、また慌しく潰し、また慌しく築きあげた。 新しく引き抜いてつけ加えたり、取り去ったりした。 奇怪な幻想的な城が、そのたびに赤くなったり青くなったりした。 やっとそれはでき上がっ...