(273字。目安の読了時間:1分) 園を出ずれば丈高く肥えたる馬二頭立ちて、磨りガラス入りたる馬車に、三個の馬丁休らいたりき。 その後九年を経て病院のかのことありしまで、高峰はかの婦人のことにつきて、予にすら一言をも語らざりしかど、年齢においても、地位においても、高峰は室あらざるべからざる身なるにもかかわらず、家を納むる夫人なく、しかも渠は学生たりし時代より品行いっそう謹厳にてあ...
(367字。目安の読了時間:1分) 源吉とやら、みずからは、とあの姫様が、言いそうもないからね」 「罰があたらあ、あてこともない」 「でも、あなたやあ、ときたらどうする」 「正直なところ、わっしは遁(に)げるよ」 「足下もか」 「え、君は」 「私も遁げるよ」と目を合わせつ。 しばらく言途絶えたり。 「高峰、ちっと歩こうか」 予は高峰とともに立ち上が...
(370字。目安の読了時間:1分) 女の新造に違いはないが、今拝んだのと較べて、どうだい。まるでもって、くすぶって、なんといっていいか汚れ切っていらあ。あれでもおんなじ女だっさ、へん、聞いて呆(あき)れらい」 「おやおや、どうした大変なことを謂い出したぜ。しかし全くだよ。私もさ、今まではこう、ちょいとした女を見ると、ついそのなんだ。いっしょに歩くおまえにも、ずいぶん迷惑を懸けたっけ...
(308字。目安の読了時間:1分) ところが、なんのこたあない。肌守りを懸けて、夜中に土堤を通ろうじゃあないか。罰のあたらないのが不思議さね。もうもう今日という今日は発心切った。あの醜婦どもどうするものか。見なさい、アレアレちらほらとこうそこいらに、赤いものがちらつくが、どうだ。まるでそら、芥塵(ごみ)か、蛆(うじ)が蠢(うご)めいているように見えるじゃあないか。ばかばかしい」 「...
(338字。目安の読了時間:1分) 足下のようでもないじゃないか」 「眩(まばゆ)くってうなだれたね、おのずと天窓が上がらなかった」 「そこで帯から下へ目をつけたろう」 「ばかをいわっし、もったいない。見しやそれとも分かぬ間だったよ。ああ残り惜しい」 「あのまた、歩行ぶりといったらなかったよ。ただもう、すうっとこう霞(かすみ)に乗って行くようだっけ。裾捌き、褄(つま)は...
(321字。目安の読了時間:1分) …じゃなし、丸髷でも、束髪でも、ないししゃぐまでもなんでもいい」 「ところでと、あのふうじゃあ、ぜひ、高島田とくるところを、銀杏と出たなあどういう気だろう」 「銀杏、合点がいかぬかい」 「ええ、わりい洒落だ」 「なんでも、あなたがたがお忍びで、目立たぬようにという肚(はら)だ。ね、それ、まん中の水ぎわが立ってたろう。いま一人が影武者と...
(471字。目安の読了時間:1分) 中なる三人の婦人等は、一様に深張りの涼傘を指し翳(かざ)して、裾捌きの音いとさやかに、するすると練り来たれる、と行き違いざま高峰は、思わず後を見返りたり。 「見たか」 高峰は頷(うなず)きぬ。 「むむ」 かくて丘に上りて躑躅を見たり。 躑躅は美なりしなり。 されどただ赤かりしのみ。 かたわらのベンチに腰懸けたる、商人...
(311字。目安の読了時間:1分) 一日予は渠(かれ)とともに、小石川なる植物園に散策しつ。 五月五日躑躅(つつじ)の花盛んなりし。 渠とともに手を携え、芳草の間を出つ、入りつ、園内の公園なる池を繞(めぐ)りて、咲き揃(そろ)いたる藤を見つ。 歩を転じてかしこなる躑躅の丘に上らんとて、池に添いつつ歩めるとき、かなたより来たりたる、一群れの観客あり。 一個洋服の扮装に...
(288字。目安の読了時間:1分) 謂うとき晩し、高峰が手にせるメスに片手を添えて、乳の下深く掻き切りぬ。 医学士は真蒼になりて戦きつつ、 「忘れません」 その声、その呼吸、その姿、その声、その呼吸、その姿。 伯爵夫人はうれしげに、いとあどけなき微笑を含みて高峰の手より手をはなし、ばったり、枕に伏すとぞ見えし、脣(くちびる)の色変わりたり。 そのときの二人が状...
(427字。目安の読了時間:1分) …こに及べるまで、医学士の挙動脱兎のごとく神速にしていささか間なく、伯爵夫人の胸を割くや、一同はもとよりかの医博士に到るまで、言を挟むべき寸隙とてもなかりしなるが、ここにおいてか、わななくあり、面を蔽うあり、背向になるあり、あるいは首を低るるあり、予のごとき、われを忘れて、ほとんど心臓まで寒くなりぬ。 三秒にして渠が手術は、ハヤその佳境に進みつ...