(653字。目安の読了時間:2分) 上 「あの泥坊が羨しい」二人の間にこんな言葉が交される程、其頃は窮迫していた。 場末の貧弱な下駄屋の二階の、ただ一間しかない六畳に、一閑張りの破れ机を二つ並べて、松村武とこの私とが、変な空想ばかり逞(たくま)しゅうして、ゴロゴロしていた頃のお話である。 もう何もかも行詰って了って、動きの取れなかった二人は、丁度その頃世間を騒がせた大泥坊の、巧みなや...
(411字。目安の読了時間:1分) 花江さんなんて女もいないし、デモも見たのじゃないんです。 その他の事も、たいがいウソのようです。 しかし、トカトントンだけは、ウソでないようです。 読みかえさず、このままお送り致します。 敬具。 この奇異なる手紙を受け取った某作家は、むざんにも無学無思想の男であったが、次の如き返答を与えた。 拝復。 気取った苦悩ですね。 僕は、あまり同...
(468字。目安の読了時間:1分) 「人生というのは、一口に言ったら、なんですか」 と私は昨夜、伯父の晩酌の相手をしながら、ふざけた口調で尋ねてみました。 「人生、それはわからん。しかし、世の中は、色と慾さ」 案外の名答だと思いました。 そうして、ふっと私は、闇屋になろうかしらと思いました。 しかし、闇屋になって一万円もうけた時のことを考えたら、すぐトカトントンが聞えて来ました、...
(494字。目安の読了時間:1分) ほとんど虚無の情熱だと思いました。 それが、その時の私の空虚な気分にぴったり合ってしまったのです。 私は局員たちを相手にキャッチボールをはじめました。 へとへとになるまで続けると、何か脱皮に似た爽やかさが感ぜられ、これだと思ったとたんに、やはりあのトカトントンが聞えるのです。 あのトカトントンの音は、虚無の情熱をさえ打ち倒します。 もう、この頃...
(472字。目安の読了時間:1分) このひとたちが、一等をとったって二等をとったって、世間はそれにほとんど興味を感じないのに、それでも生命懸けで、ラストヘビーなんかやっているのです。 別に、この駅伝競争に依って、所謂文化国家を建設しようという理想を持っているわけでもないでしょうし、また、理想も何も無いのに、それでも、おていさいから、そんな理想を口にして走って、以て世間の人たちにほめられような...
(435字。目安の読了時間:1分) …の指の股を蛙(かえる)の手のようにひろげ、空気を掻き分けて進むというような奇妙な腕の振り工合で、そうしてまっぱだかにパンツ一つ、もちろん裸足で、大きい胸を高く突き上げ、苦悶の表情よろしく首をそらして左右にうごかし、よたよたよたと走って局の前まで来て、ううんと一声唸(うな)って倒れ、 「ようし! 頑張ったぞ!」と附添の者が叫んで、それを抱き上げ、私の見てい...
(659字。目安の読了時間:2分) あのトカトントンの幻聴は、虚無をさえ打ちこわしてしまうのです。 夏になると、この地方の青年たちの間で、にわかにスポーツ熱がさかんになりました。 私には多少、年寄りくさい実利主義的な傾向もあるのでしょうか、何の意味も無くまっぱだかになって角力をとり、投げられて大怪我をしたり、顔つきをかえて走って誰よりも誰が早いとか、どうせ百メートル二十秒の組でどんぐりの...
(462字。目安の読了時間:1分) 若い女のひとたちも、手に旗を持って労働歌を歌い、私は胸が一ぱいになり、涙が出ました。 ああ、日本が戦争に負けて、よかったのだと思いました。 生れてはじめて、真の自由というものの姿を見た、と思いました。 もしこれが、政治運動や社会運動から生れた子だとしたなら、人間はまず政治思想、社会思想をこそ第一に学ぶべきだと思いました。 なおも行進を見ているうちに...
(405字。目安の読了時間:1分) …てはしゃいでいるけれども、これはまた敗戦便乗とでもいうのでしょうか、無条件降伏の屍(しかばね)にわいた蛆虫のような不潔な印象を消す事が出来ず、四月十日の投票日にも私は、伯父の局長から自由党の加藤さんに入れるようにと言われていたのですが、はいはいと言って家を出て海岸を散歩して、それだけで帰宅しました。 社会問題や政治問題に就いてどれだけ言い立てても、私たち...
(678字。目安の読了時間:2分) また自分が、どのような運動に参加したって、所詮はその指導者たちの、名誉慾か権勢慾の乗りかかった船の、犠牲になるだけの事だ。 何の疑うところも無く堂々と所信を述べ、わが言に従えば必ずや汝(なんじ)自身ならびに汝の家庭、汝の村、汝の国、否全世界が救われるであろうと、大見得を切って、救われないのは汝等がわが言に従わないからだとうそぶき、そうして一人のおいらんに、...