(349字。目安の読了時間:1分) 「はい」と言ってあたりを見回した喜助は、何事をかお役人に見とがめられたのではないかと気づかうらしく、居ずまいを直して庄兵衛の気色を伺った。 庄兵衛は自分が突然問いを発した動機を明かして、役目を離れた応対を求める言いわけをしなくてはならぬように感じた。 そこでこう言った。 「いや。別にわけがあって聞いたのではない。実はな、おれはさっきからお前の島へゆく...
(389字。目安の読了時間:1分) 罪は弟を殺したのだそうだが、よしやその弟が悪いやつで、それをどんなゆきがかりになって殺したにせよ、人の情としていい心持ちはせぬはずである。 この色の青いやせ男が、その人の情というものが全く欠けているほどの、世にもまれな悪人であろうか。 どうもそうは思われない。 ひょっと気でも狂っているのではあるまいか。 いやいや。 それにしては何一つつじつまの合わ...
(376字。目安の読了時間:1分) その額は晴れやかで目にはかすかなかがやきがある。 庄兵衛はまともには見ていぬが、始終喜助の顔から目を離さずにいる。 そして不思議だ、不思議だと、心の内で繰り返している。 それは喜助の顔が縦から見ても、横から見ても、いかにも楽しそうで、もし役人に対する気がねがなかったなら、口笛を吹きはじめるとか、鼻歌を歌い出すとかしそうに思われたからである。 庄兵...
(373字。目安の読了時間:1分) しかもそれが、罪人の間に往々見受けるような、温順を装って権勢に媚(こ)びる態度ではない。 庄兵衛は不思議に思った。 そして舟に乗ってからも、単に役目の表で見張っているばかりでなく、絶えず喜助の挙動に、細かい注意をしていた。 その日は暮れ方から風がやんで、空一面をおおった薄い雲が、月の輪郭をかすませ、ようよう近寄って来る夏の温かさが、両岸の土からも、...
(354字。目安の読了時間:1分) たぶん江戸で白河楽翁侯が政柄を執っていた寛政のころででもあっただろう。 智恩院の桜が入相の鐘に散る春の夕べに、これまで類のない、珍しい罪人が高瀬舟に載せられた。 それは名を喜助と言って、三十歳ばかりになる、住所不定の男である。 もとより牢屋敷に呼び出されるような親類はないので、舟にもただ一人で乗った。 護送を命ぜられて、いっしょに舟に乗り込んだ同...
(375字。目安の読了時間:1分) 所詮町奉行の白州で、表向きの口供を聞いたり、役所の机の上で、口書を読んだりする役人の夢にもうかがうことのできぬ境遇である。 同心を勤める人にも、いろいろの性質があるから、この時ただうるさいと思って、耳をおおいたく思う冷淡な同心があるかと思えば、またしみじみと人の哀れを身に引き受けて、役がらゆえ気色には見せぬながら、無言のうちにひそかに胸を痛める同心もあっ...
(350字。目安の読了時間:1分) 高瀬舟に乗る罪人の過半は、いわゆる心得違いのために、思わぬ科を犯した人であった。 有りふれた例をあげてみれば、当時相対死と言った情死をはかって、相手の女を殺して、自分だけ生き残った男というような類である。 そういう罪人を載せて、入相の鐘の鳴るころにこぎ出された高瀬舟は、黒ずんだ京都の町の家々を両岸に見つつ、東へ走って、加茂川を横ぎって下るのであった。 ...
(365字。目安の読了時間:1分) 高瀬舟は京都の高瀬川を上下する小舟である。 徳川時代に京都の罪人が遠島を申し渡されると、本人の親類が牢屋敷へ呼び出されて、そこで暇乞いをすることを許された。 それから罪人は高瀬舟に載せられて、大阪へ回されることであった。 それを護送するのは、京都町奉行の配下にいる同心で、この同心は罪人の親類の中で、おも立った一人を大阪まで同船させることを許す慣例であ...
(671字。目安の読了時間:2分) 不思議なことに、赤い蝋燭が、山のお宮に点った晩は、どんなに天気がよくても忽(たちま)ち大あらしになりました。 それから、赤い蝋燭は、不吉ということになりました。 蝋燭屋の年より夫婦は、神様の罰が当ったのだといって、それぎり蝋燭屋をやめてしまいました。 しかし、何処からともなく、誰が、お宮に上げるものか、毎晩、赤い蝋燭が点りました。 昔は、このお宮...
(644字。目安の読了時間:2分) お婆さんは起きて来て、戸を細目にあけて外を覗きました。 すると、一人の色の白い女が戸口に立っていました。 女は蝋燭を買いに来たのです。 お婆さんは、少しでもお金が儲かるなら、決していやな顔付をしませんでした。 お婆さんは、蝋燭の箱を出して女に見せました。 その時、お婆さんはびっくりしました。 女の長い黒い頭髪がびっしょりと水に濡れて月の光に...