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たぶん江戸で白河楽翁侯が政柄を執っていた寛政のころででもあっただろう。
智恩院の桜が入相の鐘に散る春の夕べに、これまで類のない、珍しい罪人が高瀬舟に載せられた。
それは名を喜助と言って、三十歳ばかりになる、住所不定の男である。
もとより牢屋敷に呼び出されるような親類はないので、舟にもただ一人で乗った。
護送を命ぜられて、いっしょに舟に乗り込んだ同心羽田庄兵衛は、ただ喜助が弟殺しの罪人だということだけを聞いていた。
さて牢屋敷から棧橋まで連れて来る間、この痩肉の、色の青白い喜助の様子を見るに、いかにも神妙に、いかにもおとなしく、自分をば公儀の役人として敬って、何事につけても逆らわぬようにしている。
しかもそれが、罪人の間に往々見受けるような、温順を装って権勢に媚(こ)びる態度ではない。
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