ブンゴウメール (621字。目安の読了時間:2分) 「おっかさんまた柚木さんが逃げ出してよ」 運動服を着た養女のみち子が、蔵の入口に立ってそう云った。 自分の感情はそっちのけに、養母が動揺するのを気味よしとする皮肉なところがあった。 「ゆんべもおとといの晩も自分の家へ帰って来ませんとさ」 新日本音楽の先生の帰ったあと、稽古場にしている土蔵の中の畳敷の小ぢんまりした部屋になおひとり...
ブンゴウメール (562字。目安の読了時間:2分) こういう自然の間に静思して考えを纏めようということなど、彼には今までについぞなかったことだ。 体のよいためか、ここへ来ると、新鮮な魚はうまく、潮を浴びることは快かった。 しきりに哄笑が内部から湧き上って来た。 第一にそういう無限な憧憬にひかれている老女がそれを意識しないで、刻々のちまちました生活をしているのがおかしかった。 それ...
ブンゴウメール (593字。目安の読了時間:2分) それは彼女に出来なかったことを自分にさせようとしているのだ。 しかし、彼女が彼女に出来なくて自分にさせようとしていることなぞは、彼女とて自分とて、またいかに運の籤のよきものを抽いた人間とて、現実では出来ない相談のものなのではあるまいか。 現実というものは、切れ端は与えるが、全部はいつも眼の前にちらつかせて次々と人間を釣って行くものではな...
ブンゴウメール (547字。目安の読了時間:2分) 「そのもしやもだね」 本当に性が合って、心の底から惚れ合うというのなら、それは自分も大賛成なのである。 「けれども、もし、お互いが切れっぱしだけの惚れ合い方で、ただ何かの拍子で出来合うということでもあるなら、そんなことは世間にいくらもあるし、つまらない。必ずしもみち子を相手取るにも当るまい。私自身も永い一生そんなことばかりで苦労して来...
ブンゴウメール (546字。目安の読了時間:2分) みち子はついに何ものかを柚木から読み取った。 普段「男は案外臆病なものだ」と養母の言った言葉がふと思い出された。 立派な一人前の男が、そんなことで臆病と戦っているのかと思うと、彼女は柚木が人のよい大きい家畜のように可愛ゆく思えて来た。 彼女はばらばらになった顔の道具をたちまちまとめて、愛嬌したたるような媚びの笑顔に造り直した。 ...
ブンゴウメール (628字。目安の読了時間:2分) 彼は自分でも、自分が今、しかかる素振りに驚きつつ、彼は権威者のように「出せと云ったら、出さないか」と体を嵩張らせて、のそのそとみち子に向って行った。 自分の一生を小さい陥穽に嵌め込んでしまう危険と、何か不明の牽引力の為めに、危険と判り切ったものへ好んで身を挺して行く絶体絶命の気持ちとが、生れて始めての極度の緊張感を彼から抽き出した。 ...
ブンゴウメール (583字。目安の読了時間:2分) それでは自分の一生も案外小ぢんまりした平凡に規定されてしまう寂寞の感じはあったが、しかし、また何かそうなってみての上のことでなければ判らない不明な珍らしい未来の想像が、現在の自分の心情を牽きつけた。 柚木は額を小さく見せるまでたわわに前髪や鬢を張り出した中に整い過ぎたほど型通りの美しい娘に化粧したみち子の小さい顔に、もっと自分を夢中にさ...
ブンゴウメール (638字。目安の読了時間:2分) 彼女は茶の間の四畳半と工房が座敷の中に仕切って拵えてある十二畳の客座敷との襖を開けると、そこの敷居の上に立った。 片手を柱に凭せ体を少し捻って嬌態を見せ、片手を拡げた袖の下に入れて、写真を撮るときのようなポーズを作った。 俯向き加減に眼を不機嫌らしく額越しに覗かして 「あたし来てよ」と云った。 縁側に寝ている柚木はただ「うん」と云...
ブンゴウメール (541字。目安の読了時間:2分) 蒔田の狭い二階で、注文先からの設計の予算表を造っていると、子供が代る代る来て、頸筋が赤く腫れるほど取りついた。 小さい口から嘗めかけの飴玉を取出して、涎の糸をひいたまま自分の口に押し込んだりした。 彼は自分は発明なんて大それたことより、普通の生活が欲しいのではないかと考え始めたりした。 ふと、みち子のことが頭に上った。 老妓は高い...
ブンゴウメール (613字。目安の読了時間:2分) 「あの子も、おつな真似をすることを、ちょんぼり覚えたね」 柚木にはだんだん老妓のすることが判らなくなった。 むかしの男たちへの罪滅しのために若いものの世話でもして気を取直すつもりかと思っていたが、そうでもない。 近頃この界隈に噂が立ちかけて来た、老妓の若い燕というそんな気配はもちろん、老妓は自分に対して現わさない。 何で一人前の...