(552字。目安の読了時間:2分) 私はだんだん学校へ行く事が厭(いや)になった。 学校に馴れると、子供達は、寄ってたかって私の事を「オイチニイの新馬鹿大将の娘じゃ」と、云った。 私はチャップリンの新馬鹿大将と、父の姿とは、似つかないものだと思っていた。 それ故、私は、いつか、父にその話をしようと思ったが、父は長い雨で腐り切っていた。 黄色い粟飯が続いた。 私は飯を食べるごとに、厩(うまや...
(543字。目安の読了時間:2分) 教員室には、二列になって、カナリヤの巣のような小さい本箱が並んでいた。 真中に火鉢があった。 そこに、父と校長が並んでいた。 父は、私の顔を見ると、いんぎんにおじぎをした。 だから、私も、おじぎをしなければならないのだろうと、丁寧に最敬礼をした。 校長は満足気であった。 「教室へ連れて行きましょう」 「ほんなら、私はこれで失礼いたします。何ともハヤ、よろしく...
(562字。目安の読了時間:2分) 母は「このひとも苦労しなはる」と、思ったのか、その通いを、医者の見ぬように隠した。 「あぶないところであった」 「よかりましょうか?」 「打身をしとらぬから、血の道さえおこらねば、このままでよろしかろ」 一度は食べてみたいと思ったおばさんの、内職の昆布が、部屋の隅に散乱していた。 五ツ六ツ私は口に入れた。 山椒がヒリッと舌をさした。 「生きてあがったとじゃか...
(616字。目安の読了時間:2分) 「これへ乗って行きゃア、東京まで、沈黙っちょっても行けるんぞ」 「東京から、先の方は行けんか?」 「夷(えびす)の住んどるけに、女子供は行けぬ」 「東京から先は海か?」 「ハテ、お父さんも行ったこたなかよ」 随分、石段の多い学校であった。 父は石段の途中で何度も休んだ。 学校の庭は沙漠のように広かった。 四隅に花壇があって、ゆすらうめ、鉄線蓮、おんじ、薊(あ...
(544字。目安の読了時間:2分) 「早よう行って来ぬか! 何しよっとか?」 私は、見当もつかない夜更けの町へ出た。 波と風の音がして、町中、腥(なまぐさ)い臭いが流れていた。 小満の季節らしく、三味線の音のようなものが遠くから聞えて来る。 いつから、手を通していたのであろうか、首のところで、釦(ボタン)をとめて、私は父の道化た憲兵の服を着ていた。 そのためだろうか、街角の医者の家を叩くと、...
(556字。目安の読了時間:2分) 私はたまらなくなって、雨戸を開き、障子を開けた。 石榴の葉が、ツンツン豆の葉のように光って、山の上に盆のような朱い月が出ている。 肌の上を何かついと走った。 「どぎゃん、したかアい!」 思わず私は声をあげて下へ叫んでみた。 母が、鏡と洋燈を持っているのが見えた。 「ハイ! この縄を一生懸命握っとんなはい」 父はこうわめきながら、縄の先を、真中の石榴の幹...
(583字。目安の読了時間:2分) 「ま、勉強せい、明日は連れて行ってやる」 学校に行けることは、不安なようで嬉しい事であった。 その晩、胸がドキドキして、私は子供らしく、いつまでも瞼(まぶた)の裏に浮んで来る白い数字を数えていた。 十二時頃ででもあったであろうか、ウトウトしかけていると、裏の井戸で、重石か何か墜ちたように凄まじい水音がした。 犬も猫も、井戸が深いので今までは墜ちこんでも嘗め...
(565字。目安の読了時間:2分) 「人の足折って、知らん顔しちょるもんがよオ」 「金を持っちょるけに、かなわんたい」 「階下のおじさんな、馬鹿たれか?」 「何ば云よっとか!」 父は風琴と弁当を持って、一日中、「オイチニイ オイチニイ」と、町を流して薬を売って歩いた。 「漁師町に行ってみい、オイチニイの薬が来たいうて、皆出て来るけに」 「風体が珍しかけにな」 長いこと晴れた日が続いた。 山...
(636字。目安の読了時間:2分) 「尾の道の町に、何か力があっとじゃろ、大阪までも行かいでよかった」 「大阪まで行っとれば、ほんのこて今頃は苦労しよっとじゃろ」 この頃、父も母も、少し肥えたかのように、私の眼にうつった。 私は毎日いっぱい飯を食った。 嬉しい日が続いた。 「腹が固うなるほど、食うちょれ、まんまさえ食うちょりゃ、心配なか」 「のう――おッ母さん! 階下のおばさんたち、飯食うち...
(573字。目安の読了時間:2分) 二階の縁の障子をあけると、その石榴の木と井戸が真下に見えた。 井戸水は塩分を多分に含んで、顔を洗うと、ちょっと舌が塩っぱかった。 水は二階のはんど甕(がめ)の中へ、二日分位汲み入れた。 縁側には、七輪や、馬穴(バケツ)や、ゆきひらや、鮑(あわび)の植木鉢や、座敷は六畳で、押入れもなければ床の間もない。 これが私達三人の落ちついた二階借りの部屋の風景である。 ...