(596字。目安の読了時間:2分) 肋骨のように、胸に黄色い筋のついた憲兵の服を着た父が、風琴を鳴らしながら「オイチニイ、オイチニイ」と坂になった町の方へ上って行った。 母は父の鳴らす風琴の音を聞くとうつむいてシュンと鼻をかんだ。 私は呆(ぼ)んやり油のついた掌を嘗(な)めていた。 「どら、鼻をこっちい、やってみい」 母は衿(えり)にかけていた手拭を小指の先きに巻いて、私の鼻の穴につっこんだ...
(557字。目安の読了時間:2分) 私達は、しばらく、その男達が面白い身ぶりでかまぼこをこさえている手つきに見とれていた。 「あにさん! 日の丸の旗が出ちょるが、何事ばしあるとな」 骨を叩く手を止めて、眼玉の赤い男がものうげに振り向いて口を開けた。 「市長さんが来たんじゃ」 「ホウ! たまげたさわぎだな」 私達はまた歩調をあわせて歩きだした。 浜には小さい船着場がたくさんあった。 河のよう...
(604字。目安の読了時間:2分) 「この町は、祭でもあるらしい、降りてみんかやのう」 母も経文を合財袋にしまいながら、立ちあがった。 「ほんとに、綺麗な町じゃ、まだ陽が高いけに、降りて弁当の代でも稼ぎまっせ」 で、私達三人は、おのおのの荷物を肩に背負って、日の丸の旗のヒラヒラした海辺の町へ降りた。 駅の前には、白く芽立った大きな柳の木があった。 柳の木の向うに、煤(すす)で汚れた旅館が二...
(541字。目安の読了時間:2分) 1 父は風琴を鳴らすことが上手であった。 音楽に対する私の記憶は、この父の風琴から始まる。 私達は長い間、汽車に揺られて退屈していた、母は、私がバナナを食んでいる傍で経文を誦(ず)しながら、泪(なみだ)していた。 「あなたに身を託したばかりに、私はこの様に苦労しなければならない」と、あるいはそう話しかけていたのかも知れない。 父は、白い風呂敷包みの中の風...
(512字。目安の読了時間:2分) そこには、さっきの無気味な手紙と寸分違わぬ筆癖をもって、彼女の名宛が書かれてあったのだ。 彼女は、長い間、それを開封しようか、しまいかと迷っていた。 が、とうとう、最後にそれを破って、ビクビクしながら、中身を読んで行った。 手紙はごく短いものであったけれど、そこには、彼女を、もう一度ハッとさせた様な、奇妙な文言が記されていた。 突然御手紙を差上げます無躾を...
(594字。目安の読了時間:2分) 外の人達の様に、私を気違いだとはおっしゃいませんでしょうね。アア、それで私も話甲斐があったと申すものですよ。どれ、兄さん達もくたびれたでしょう。それに、あなた方を前に置いて、あんな話をしましたので、さぞかし恥かしがっておいででしょう。では、今やすませて上げますよ」 と云いながら、押絵の額を、ソッと黒い風呂敷に包むのであった。 その刹那、私の気のせいであったの...
(586字。目安の読了時間:2分) 手紙の後の方は、いっそ読まないで、破り棄てて了おうかと思ったけれど、どうやら気懸りなままに、居間の小机の上で、兎も角も、読みつづけた。 彼女の予感はやっぱり当っていた。 これはまあ、何という恐ろしい事実であろう。 彼女が毎日腰かけていた、あの肘掛椅子の中には、見も知らぬ一人の男が、入っていたのであるか。 「オオ、気味の悪い」 彼女は、背中から冷水をあびせ...
(653字。目安の読了時間:2分) 二人は本当の新婚者の様に、恥かし相に顔を赤らめながら、お互の肌と肌とを触れ合って、さもむつまじく、尽きぬ睦言を語り合ったものでございますよ。 その後、父は東京の商売をたたみ、富山近くの故郷へ引込みましたので、それにつれて、私もずっとそこに住んで居りますが、あれからもう三十年の余になりますので、久々で兄にも変った東京が見せてやり度いと思いましてね、こうして兄と...
(575字。目安の読了時間:2分) 私は決してそれ以上を望むものではありません。 そんなことを望むには、余りに醜く、汚れ果てた私でございます。 どうぞどうぞ、世にも不幸な男の、切なる願いを御聞き届け下さいませ。 私は昨夜、この手紙を書く為に、お邸を抜け出しました。 面と向って、奥様にこんなことをお願いするのは、非常に危険でもあり、且つ私には迚も出来ないことでございます。 そして、今、あなたが...
(703字。目安の読了時間:2分) 私はその絵をどんなに高くてもよいから、必ず私に譲ってくれと、覗き屋に固い約束をして、(妙なことに、小姓の吉三の代りに洋服姿の兄が坐っているのを、覗き屋は少しも気がつかない様子でした)家へ飛んで帰って、一伍一什を母に告げました所、父も母も、何を云うのだ。お前は気でも違ったのじゃないかと申して、何と云っても取上げてくれません。おかしいじゃありませんか。ハハハハハハ...