(543字。目安の読了時間:2分) 彼女は、丁度嬰児が母親の懐に抱かれる時の様な、又は、処女が恋人の抱擁に応じる時の様な、甘い優しさを以て私の椅子に身を沈めます。 そして、私の膝の上で、身体を動かす様子までが、さも懐しげに見えるのでございます。 かようにして、私の情熱は、日々に烈しく燃えて行くのでした。 そして、遂には、ああ奥様、遂には、私は、身の程もわきまえぬ、大それた願いを抱く様になったの...
(680字。目安の読了時間:2分) なんと、あなた、こうして私の兄は、それっきり、この世から姿を消してしまったのでございますよ……それ以来というもの、私は一層遠眼鏡という魔性の器械を恐れる様になりました。殊にも、このどこの国の船長とも分らぬ、異人の持物であった遠眼鏡が、特別いやでして、外の眼鏡は知らず、この眼鏡丈けは、どんなことがあっても、さかさに見てはならぬ。さかさに覗けば凶事が起ると、固く信...
(616字。目安の読了時間:2分) 若し、そこに人間が隠れているということを、あからさまに知らせたなら、彼女はきっと、驚きの余り、主人や召使達に、その事を告げるに相違ありません。 それでは凡てが駄目になって了うばかりか、私は、恐ろしい罪名を着て、法律上の刑罰をさえ受けなければなりません。 そこで、私は、せめて夫人に、私の椅子を、この上にも居心地よく感じさせ、それに愛着を起させようと努めました。...
(679字。目安の読了時間:2分) で、兄の秘蔵の遠眼鏡も、余り覗いたことがなく、覗いたことが少い丈けに、余計それが魔性の器械に思われたものです。 しかも、日が暮て人顔もさだかに見えぬ、うすら淋しい観音堂の裏で、遠眼鏡をさかさにして、兄を覗くなんて、気違いじみてもいますれば、薄気味悪くもありましたが、兄がたって頼むものですから、仕方なく云われた通りにして覗いたのですよ。 さかさに覗くのですから、...
(564字。目安の読了時間:2分) それ以来、約一ヶ月の間、私は絶えず、夫人と共に居りました。 夫人の食事と、就寝の時間を除いては、夫人のしなやかな身体は、いつも私の上に在りました。 それというのが、夫人は、その間、書斎につめきって、ある著作に没頭していられたからでございます。 私がどんなに彼女を愛したか、それは、ここに管々しく申し上げるまでもありますまい。 彼女は、私の始めて接した日本人で、...
(533字。目安の読了時間:2分) 今度は、ひょっとすると、日本人に買いとられるかも知れない。 そして、日本人の家庭に置かれるかも知れない。 それが、私の新しい希望でございました。 私は、兎も角も、もう少し椅子の中の生活を続けて見ることに致しました。 道具屋の店先で、二三日の間、非常に苦しい思いをしましたが、でも、競売が始まると、仕合せなことには、私の椅子は早速買手がつきました。 古くなっても...
(645字。目安の読了時間:2分) その時分には、もう日が暮かけて、人足もまばらになり、覗きの前にも、二三人のおかっぱの子供が、未練らしく立去り兼ねて、うろうろしているばかりでした。 昼間からどんよりと曇っていたのが、日暮には、今にも一雨来そうに、雲が下って来て、一層圧えつけられる様な、気でも狂うのじゃないかと思う様な、いやな天候になって居りました。 そして、耳の底にドロドロと太鼓の鳴っている...
(683字。目安の読了時間:2分) そして、『お前、私達が探していた娘さんはこの中にいるよ』と申すのです。 そう云われたものですから、私は急いでおあしを払って、覗きの眼鏡を覗いて見ますと、それは八百屋お七の覗きからくりでした。 丁度吉祥寺の書院で、お七が吉三にしなだれかかっている絵が出て居りました。 忘れもしません。 からくり屋の夫婦者は、しわがれ声を合せて、鞭で拍子を取りながら、『膝でつっら...
(544字。目安の読了時間:2分) その為に不用になった調度などは、ある大きな家具商に委託して、競売せしめたのでありますが、その競売目録の内に、私の椅子も加わっていたのでございます。 私は、それを知ると、一時はガッカリ致しました。 そして、それを機として、もう一度娑婆へ立帰り、新しい生活を始めようかと思った程でございます。 その時分には、盗みためた金が相当の額に上っていましたから、仮令、世の中...
(595字。目安の読了時間:2分) もう一つは、有名なある国のダンサーが来朝した時、偶然彼女がそのホテルに宿泊して、たった一度ではありましたが、私の椅子に腰かけたことでございます。 その時も、私は、大使の場合と似た感銘を受けましたが、その上、彼女は私に、嘗(か)つて経験したことのない理想的な肉体美の感触を与えて呉れました。 私はそのあまりの美しさに卑しい考えなどは起す暇もなく、ただもう、芸術品...