(354字。目安の読了時間:1分) 二つの手桶に溢(あふ)るるほど汲(く)みて、十三は入れねば成らず、大汗に成りて運びけるうち、輪宝のすがりし曲み歯の水ばき下駄、前鼻緒のゆるゆるに成りて、指を浮かさねば他愛の無きやう成し、その下駄にて重き物を持ちたれば足もと覚束なくて流し元の氷にすべり、あれと言ふ間もなく横にころべば井戸がはにて向ふ臑(ずね)したたかに打ちて、可愛や雪はづかしき膚に紫の生々しく...
(358字。目安の読了時間:1分) 厭(い)やに成つたら私の所まで端書一枚、こまかき事は入らず、他所の口を探せとならば足は惜しまじ、何れ奉公の秘伝は裏表と言ふて聞かされて、さても恐ろしき事を言ふ人と思へど、何も我が心一つで又この人のお世話には成るまじ、勤め大事に骨さへ折らば御気に入らぬ事も無き筈(はづ)と定めて、かかる鬼の主をも持つぞかし、目見えの済みて三日の後、七歳になる嬢さま踊りのさらひに...
(333字。目安の読了時間:1分) 上 井戸は車にて綱の長さ十二尋、勝手は北向きにて師走の空のから風ひゆうひゆうと吹ぬきの寒さ、おお堪えがたと竈(かまど)の前に火なぶりの一分は一時にのびて、割木ほどの事も大台にして叱(しか)りとばさるる婢女の身つらや、はじめ受宿の老媼さまが言葉には御子様がたは男女六人、なれども常住家内にお出あそばすは御総領と末お二人、少し御新造は機嫌かいなれど、目色顔色を...
(479字。目安の読了時間:1分) そうして、附加えて言うことに、袁※(えんさん)が嶺南からの帰途には決してこの途を通らないで欲しい、その時には自分が酔っていて故人を認めずに襲いかかるかも知れないから。 又、今別れてから、前方百歩の所にある、あの丘に上ったら、此方を振りかえって見て貰いたい。 自分は今の姿をもう一度お目に掛けよう。 勇に誇ろうとしてではない。 我が醜悪な姿を示して、以...
(517字。目安の読了時間:2分) だが、お別れする前にもう一つ頼みがある。 それは我が妻子のことだ。 彼等は未だ※略(かくりゃく)にいる。 固より、己の運命に就いては知る筈(はず)がない。 君が南から帰ったら、己は既に死んだと彼等に告げて貰えないだろうか。 決して今日のことだけは明かさないで欲しい。 厚かましいお願だが、彼等の孤弱を憐(あわ)れんで、今後とも道塗に飢凍することのな...
(448字。目安の読了時間:1分) 己の空費された過去は? 己は堪らなくなる。 そういう時、己は、向うの山の頂の巖(いわ)に上り、空谷に向って吼(ほ)える。 この胸を灼く悲しみを誰かに訴えたいのだ。 己は昨夕も、彼処で月に向って咆(ほ)えた。 誰かにこの苦しみが分って貰(もら)えないかと。 しかし、獣どもは己の声を聞いて、唯、懼(おそ)れ、ひれ伏すばかり。 山も樹も月も露も、一匹の...
(460字。目安の読了時間:1分) 己の場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。 虎だったのだ。 これが己を損い、妻子を苦しめ、友人を傷つけ、果ては、己の外形をかくの如く、内心にふさわしいものに変えて了ったのだ。 今思えば、全く、己は、己の有っていた僅かばかりの才能を空費して了った訳だ。 人生は何事をも為さぬには余りに長いが、何事かを為すには余りに短いなどと口先ばかりの警句を弄しながら、事...
(473字。目安の読了時間:1分) 人間であった時、己は努めて人との交を避けた。 人々は己を倨傲だ、尊大だといった。 実は、それが殆(ほとん)ど羞恥心に近いものであることを、人々は知らなかった。 勿論、曾ての郷党の鬼才といわれた自分に、自尊心が無かったとは云(い)わない。 しかし、それは臆病な自尊心とでもいうべきものであった。 己は詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり...
(468字。目安の読了時間:1分) 岩窟の中に横たわって見る夢にだよ。 嗤(わら)ってくれ。 詩人に成りそこなって虎になった哀れな男を。 (袁※(えんさん)は昔の青年李徴の自嘲癖を思出しながら、哀しく聞いていた。)そうだ。 お笑い草ついでに、今の懐を即席の詩に述べて見ようか。 この虎の中に、まだ、曾ての李徴が生きているしるしに。 袁※(えんさん)は又下吏に命じてこれを書きとらせた...
(452字。目安の読了時間:1分) 作の巧拙は知らず、とにかく、産を破り心を狂わせてまで自分が生涯それに執着したところのものを、一部なりとも後代に伝えないでは、死んでも死に切れないのだ。 袁※(えんさん)は部下に命じ、筆を執って叢中の声に随って書きとらせた。 李徴の声は叢の中から朗々と響いた。 長短凡そ三十篇、格調高雅、意趣卓逸、一読して作者の才の非凡を思わせるものばかりである。 し...