(550字。目安の読了時間:2分) 己の中の人間の心がすっかり消えて了えば、恐らく、その方が、己はしあわせになれるだろう。 だのに、己の中の人間は、その事を、この上なく恐しく感じているのだ。 ああ、全く、どんなに、恐しく、哀しく、切なく思っているだろう! 己が人間だった記憶のなくなることを。 この気持は誰にも分らない。 誰にも分らない。 己と同じ身の上に成った者でなければ。 ところ...
(476字。目安の読了時間:1分) その人間の心で、虎としての己の残虐な行のあとを見、己の運命をふりかえる時が、最も情なく、恐しく、憤ろしい。 しかし、その、人間にかえる数時間も、日を経るに従って次第に短くなって行く。 今までは、どうして虎などになったかと怪しんでいたのに、この間ひょいと気が付いて見たら、己はどうして以前、人間だったのかと考えていた。 これは恐しいことだ。 今少し経てば...
(488字。目安の読了時間:1分) どうしても夢でないと悟らねばならなかった時、自分は茫然とした。 そうして懼(おそ)れた。 全く、どんな事でも起り得るのだと思うて、深く懼れた。 しかし、何故こんな事になったのだろう。 分らぬ。 全く何事も我々には判らぬ。 理由も分らずに押付けられたものを大人しく受取って、理由も分らずに生きて行くのが、我々生きもののさだめだ。 自分は直ぐに死を想...
(489字。目安の読了時間:1分) 青年時代に親しかった者同志の、あの隔てのない語調で、それ等が語られた後、袁※(えんさん)は、李徴がどうして今の身となるに至ったかを訊(たず)ねた。 草中の声は次のように語った。 今から一年程前、自分が旅に出て汝水のほとりに泊った夜のこと、一睡してから、ふと眼を覚ますと、戸外で誰かが我が名を呼んでいる。 声に応じて外へ出て見ると、声は闇の中から頻りに自...
(508字。目安の読了時間:2分) 袁※(えんさん)は恐怖を忘れ、馬から下りて叢に近づき、懐かしげに久闊を叙した。 そして、何故叢から出て来ないのかと問うた。 李徴の声が答えて言う。 自分は今や異類の身となっている。 どうして、おめおめと故人の前にあさましい姿をさらせようか。 かつ又、自分が姿を現せば、必ず君に畏怖嫌厭の情を起させるに決っているからだ。 しかし、今、図らずも故人に...
(504字。目安の読了時間:2分) 袁※(えんさん)は、しかし、供廻りの多勢なのを恃み、駅吏の言葉を斥けて、出発した。 残月の光をたよりに林中の草地を通って行った時、果して一匹の猛虎が叢(くさむら)の中から躍り出た。 虎は、あわや袁※(えんさん)に躍りかかるかと見えたが、忽(たちま)ち身を飜(ひるがえ)して、元の叢に隠れた。 叢の中から人間の声で「あぶないところだった...
(482字。目安の読了時間:1分) 曾ての同輩は既に遥(はる)か高位に進み、彼が昔、鈍物として歯牙にもかけなかったその連中の下命を拝さねばならぬことが、往年の儁才李徴の自尊心を如何に傷けたかは、想像に難くない。 彼は怏々(おうおう)として楽しまず、狂悖の性は愈々(いよいよ)抑え難くなった。 一年の後、公用で旅に出、汝水のほとりに宿った時、遂に発狂した。 或(ある)夜半...
(504字。目安の読了時間:2分) 隴西の李徴は博学才穎、天宝の末年、若くして名を虎榜に連ね、ついで江南尉に補せられたが、性、狷介、自ら恃(たの)むところ頗(すこぶ)る厚く、賤吏に甘んずるを潔しとしなかった。 いくばくもなく官を退いた後は、故山、※略(かくりゃく)に帰臥し、人と交を絶って、ひたすら詩作に耽(ふけ)った。 下吏となって長く膝を俗悪な大官の前に屈するよ...
(482字。目安の読了時間:1分) しかも、これに気付いている者はほとんど無い。 今にして文字への盲目的崇拝を改めずんば、後に臍(ほぞ)を噬(か)むとも及ばぬであろう云々(うんぬん)。 文字の霊が、この讒謗者をただで置く訳が無い。 ナブ・アヘ・エリバの報告は、いたく大王のご機嫌を損じた。 ナブウ神の熱烈な讃仰者で当時第一流の文化人たる大王にしてみれば、これは当然のことである。 老博士は即日謹慎...
(495字。目安の読了時間:1分) 彼が一軒の家をじっと見ている中に、その家は、彼の眼と頭の中で、木材と石と煉瓦と漆喰との意味もない集合に化けてしまう。 これがどうして人間の住む所でなければならぬか、判らなくなる。 人間の身体を見ても、その通り。 みんな意味の無い奇怪な形をした部分部分に分析されてしまう。 どうして、こんな恰好をしたものが、人間として通っているのか、まるで理解できなくなる。 眼に...