(287字。目安の読了時間:1分) 何か華やかな美しい音楽の快速調の流れが、見る人を石に化したというゴルゴンの鬼面――的なものを差しつけられて、あんな色彩やあんなヴォリウムに凝り固まったというふうに果物は並んでいる。 青物もやはり奥へゆけばゆくほど堆高く積まれている。 ――実際あそこの人参葉の美しさなどは素晴しかった。 それから水に漬けてある豆だとか慈姑だとか。 また...
(327字。目安の読了時間:1分) そして街から街へ、先に言ったような裏通りを歩いたり、駄菓子屋の前で立ち留まったり、乾物屋の乾蝦や棒鱈や湯葉を眺めたり、とうとう私は二条の方へ寺町を下り、そこの果物屋で足を留めた。 ここでちょっとその果物屋を紹介したいのだが、その果物屋は私の知っていた範囲で最も好きな店であった。 そこは決して立派な店ではなかったのだが、果物屋固有の美しさが最も...
(297字。目安の読了時間:1分) しかしここももうその頃の私にとっては重くるしい場所に過ぎなかった。 書籍、学生、勘定台、これらはみな借金取りの亡霊のように私には見えるのだった。 ある朝――その頃私は甲の友達から乙の友達へというふうに友達の下宿を転々として暮らしていたのだが――友達が学校へ出てしまったあとの空虚な空気のなかにぽつねんと一人取り残された。 私はまたそこから...
(269字。目安の読了時間:1分) 美しいもの――と言って無気力な私の触角にむしろ媚(こ)びて来るもの。 ――そう言ったものが自然私を慰めるのだ。 生活がまだ蝕(むしば)まれていなかった以前私の好きであった所は、たとえば丸善であった。 赤や黄のオードコロンやオードキニン。 洒落た切子細工や典雅なロココ趣味の浮模様を持った琥珀色や翡翠色の香水壜。 煙管、小刀、石鹸、...
(273字。目安の読了時間:1分) あのびいどろの味ほど幽かな涼しい味があるものか。 私は幼い時よくそれを口に入れては父母に叱られたものだが、その幼時のあまい記憶が大きくなって落ち魄(ぶ)れた私に蘇(よみが)えってくる故だろうか、まったくあの味には幽かな爽やかななんとなく詩美と言ったような味覚が漂って来る。 察しはつくだろうが私にはまるで金がなかった。 とは言えそんなもの...
(262字。目安の読了時間:1分) 私はまたあの花火というやつが好きになった。 花火そのものは第二段として、あの安っぽい絵具で赤や紫や黄や青や、さまざまの縞模様を持った花火の束、中山寺の星下り、花合戦、枯れすすき。 それから鼠花火というのは一つずつ輪になっていて箱に詰めてある。 そんなものが変に私の心を唆った。 それからまた、びいどろという色硝子で鯛や花を打ち出して...
(274字。目安の読了時間:1分) 私は、できることなら京都から逃げ出して誰一人知らないような市へ行ってしまいたかった。 第一に安静。 がらんとした旅館の一室。 清浄な蒲団。 匂いのいい蚊帳と糊(のり)のよくきいた浴衣。 そこで一月ほど何も思わず横になりたい。 希わくはここがいつの間にかその市になっているのだったら。 ――錯覚がようやく成功しはじめると私はそ...
(274字。目安の読了時間:1分) 私は、できることなら京都から逃げ出して誰一人知らないような市へ行ってしまいたかった。 第一に安静。 がらんとした旅館の一室。 清浄な蒲団。 匂いのいい蚊帳と糊(のり)のよくきいた浴衣。 そこで一月ほど何も思わず横になりたい。 希わくはここがいつの間にかその市になっているのだったら。 ――錯覚がようやく成功しはじめると私はそ...
(242字。目安の読了時間:1分) 雨や風が蝕(むしば)んでやがて土に帰ってしまう、と言ったような趣きのある街で、土塀が崩れていたり家並が傾きかかっていたり――勢いのいいのは植物だけで、時とするとびっくりさせるような向日葵があったりカンナが咲いていたりする。 時どき私はそんな路を歩きながら、ふと、そこが京都ではなくて京都から何百里も離れた仙台とか長崎とか――そのような市へ今自分が...
(351字。目安の読了時間:1分) 蓄音器を聴かせてもらいにわざわざ出かけて行っても、最初の二三小節で不意に立ち上がってしまいたくなる。 何かが私を居堪らずさせるのだ。 それで始終私は街から街を浮浪し続けていた。 何故だかその頃私は見すぼらしくて美しいものに強くひきつけられたのを覚えている。 風景にしても壊れかかった街だとか、その街にしてもよそよそしい表通りよりもどこ...