(586字。目安の読了時間:2分) ところが、いつの場合にも、私のこの、フーワリとした紫の夢は、忽(たちま)ちにして、近所のお上さんの姦(かしま)しい話声や、ヒステリーの様に泣き叫ぶ、其辺の病児の声に妨げられて、私の前には、又しても、醜い現実が、あの灰色のむくろをさらけ出すのでございます。 現実に立帰った私は、そこに、夢の貴公子とは似てもつかない、哀れにも醜い、自分自身の姿を見出します。 そし...
(668字。目安の読了時間:2分) 何故であったか、その理由は今でも分らないのだが、何となくそうしなければならぬ感じがして、数秒の間目をふさいでいた。 再び目を開いた時、私の前に、嘗て見たことのない様な、奇妙なものがあった。 と云って、私はその「奇妙」な点をハッキリと説明する言葉を持たぬのだが。 額には歌舞伎芝居の御殿の背景みたいに、幾つもの部屋を打抜いて、極度の遠近法で、青畳と格子天井が遙か...
(603字。目安の読了時間:2分) 壁間には定めし、有名な画家の油絵が懸り、天井からは、偉大な宝石の様な装飾電燈(シャンデリヤ)が、さがっているに相違ない。 床には、高価な絨氈(じゅうたん)が、敷きつめてあるだろう。 そして、この椅子の前のテーブルには、眼の醒める様な、西洋草花が、甘美な薫を放って、咲き乱れていることであろう。 そんな妄想に耽っていますと、何だかこう、自分が、その立派な部屋の主に...
(678字。目安の読了時間:2分) 私は彼と向き合ったクッションへ、そっと腰をおろし、近寄れば一層異様に見える彼の皺だらけの白い顔を、私自身が妖怪ででもある様な、一種不可思議な、顛倒した気持で、目を細く息を殺してじっと覗き込んだものである。 男は、私が自分の席を立った時から、ずっと目で私を迎える様にしていたが、そうして私が彼の顔を覗き込むと、待ち受けていた様に、顎で傍らの例の扁平な荷物を指し...
(677字。目安の読了時間:2分) それから、小駅を二三通過する間、私達はお互の隅に坐ったまま、遠くから、時々視線をまじえては、気まずく外方を向くことを、繰返していた。 外は全く暗闇になっていた。 窓ガラスに顔を押しつけて覗いて見ても、時たま沖の漁船の舷燈が遠く遠くポッツリと浮んでいる外には、全く何の光りもなかった。 際涯のない暗闇の中に、私達の細長い車室丈けが、たった一つの世界の様に、いつま...
(650字。目安の読了時間:2分) 併し、不幸な私は、何れの恵みにも浴することが出来ず、哀れな、一家具職人の子として、親譲りの仕事によって、其日其日の暮しを、立てて行く外はないのでございました。 私の専門は、様々の椅子を作ることでありました。 私の作った椅子は、どんな難しい註文主にも、きっと気に入るというので、商会でも、私には特別に目をかけて、仕事も、上物ばかりを、廻して呉れて居りました。 そ...
(694字。目安の読了時間:2分) それに、彼が再び包む時にチラと見た所によると、額の表面に描かれた極彩色の絵が、妙に生々しく、何となく世の常ならず見えたことであった。 私は更めて、この変てこな荷物の持主を観察した。 そして、持主その人が、荷物の異様さにもまして、一段と異様であったことに驚かされた。 彼は非常に古風な、我々の父親の若い時分の色あせた写真でしか見ることの出来ない様な、襟の狭い、...
(534字。目安の読了時間:2分) そうでないと、若し、あなたが、この無躾な願いを容れて、私にお逢(あ)い下さいました場合、たださえ醜い私の顔が、長い月日の不健康な生活の為に、二た目と見られぬ、ひどい姿になっているのを、何の予備知識もなしに、あなたに見られるのは、私としては、堪え難いことでございます。 私という男は、何と因果な生れつきなのでありましょう。 そんな醜い容貌を持ちながら、胸の中では...
(661字。目安の読了時間:2分) 勿論、広い世界に誰一人、私の所業を知るものはありません。 若し、何事もなければ、私は、このまま永久に、人間界に立帰ることはなかったかも知れないのでございます。 ところが、近頃になりまして、私の心にある不思議な変化が起りました。 そして、どうしても、この、私の因果な身の上を、懺悔しないではいられなくなりました。 ただ、かように申しましたばかりでは、色々御不審に...
(699字。目安の読了時間:2分) 不思議な偶然であろうか、あの辺の汽車はいつでもそうなのか、私の乗った二等車は、教会堂の様にガランとしていて、私の外にたった一人の先客が、向うの隅のクッションに蹲(うずくま)っているばかりであった。 汽車は淋(さび)しい海岸の、けわしい崕(がけ)や砂浜の上を、単調な機械の音を響かせて、際しもなく走っている。 沼の様な海上の、靄の奥深く、黒血の色の夕焼が、ボンヤ...