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私がここの家から放れがたなく感じるのも主人のそのこの上もない善良さからであり、軽部が私の頭の上から金槌を落したりするのも主人のその善良さのためだとすると、善良なんていうことは昔から案外良い働きをして来なかったにちがいない。 さてその日主人と私は地金を買いにいって戻って来るとその途中主人は私に今日はこういう話があったといっていうには自分の家の赤色プレートの製法を五万円で売ってくれというのだが売って良いものかどうだろうかと訊くので、私もそれには答えられずに黙っていると赤色プレートもいつまでも誰れにも考案されないものならともかくもう仲間達が必死にこっそり研究しているので製法を売るなら今の中だという。 それもそうだろうと思っても主人の長い苦心の結果の研究を私がとやかくいう権利もなしそうかといって主人ひとりに任しておいては主人はいつの間にか細君のいうままになりそうだし、細君というものはまた目さきのことだけより考えないに決っているのを思うと私もどうかして主人のためになるようにとそればかりがそれからの不思議に私の興味の中心になって来た。 家にいても家の中の動きや物品が尽く私の整理を待たねばならぬかのように映り出して来て軽部までがまるで私の家来のように見えて来たのは良いとしても、暇さえあれば覚えて来た弁士の声色ばかり唸っている彼の様子までがうるさくなった。 しかし、それから間もなく反対に軽部の眼がまた激しく私の動作に敏感になって来て仕事場にいるときは殆ど私から眼を放さなくなったのを感じ出した。 思うに軽部は主人の仕事の最近の経過や赤色プレートの特許権に関する話を主婦から聞かされたにちがいないのだが、主婦まで軽部に私を監視せよといいつけたのかどうかは私には分らなかった。 しかし、私までが主婦や軽部がいまにもしかするとこっそり主人の仕事の秘密を盗み出して売るのではないかと思われて幾分の監視さえする気持ちになったところから見てさえも、主婦や軽部が私を同様に疑う気持ちはそんなに誤魔化していられるものではない。
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