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2019-05-22

犬を連れた奥さん(22/30) - ブンゴウメール

ブンゴウメール

(764字。目安の読了時間:2分)

彼女は三列目に腰をおろしたが、グーロフはその姿を一目みた瞬間ぎゅっと心臓がしめつけられて、現在自分にとって世界じゅうにこれほど近しい、これほど貴い、これほど大切な人はないのだということを、はっきり覚ったのだった。

田舎者の群のなかに紛れ込んでいるこの小さな女、俗っぽい柄付眼鏡かなんかを両手にもてあそんでさっぱり見映えのしないこの女、それが今や彼の全生活を満たし、彼の悲しみであり、悦びであり、彼の現在願い求める唯一つの幸福なのだ。

やくざなオーケストラや、みすぼらしい田舎くさいヴァイオリンの音につれて、彼はああ何ていい女だろうと思うのだった。

かつは考えかつは空想を描くのだった。

 アンナ・セルゲーヴナと一緒に一人の若い男がはいって来て、並び合って席についた。

それはちょっぴり頬髯を生やした、おそろしく背の高い、猫背の男だった。

一あしごとに首を縦にふるので、まるでのべつにお辞儀をしているように見える。

多分これが、彼女があの晩ヤールタで悲痛な感情の発作に駆られて、従僕と失礼な呼び方をした良人なのだろう。

なるほどそう言えば、そのひょろ長い恰好や、頬髯や、ちょっぴり禿げ上がった額ぎわなどには、一種こう従僕めいたへりくだった所があるし、おまけに甘ったるい微笑を浮かべて、ボタン孔にはちょうど従僕の番号みたいに、学位章か何かが光っていた。

 初めての幕間に良人は煙草をのみに出て行って、彼女は席に居のこった。

やはり平土間に席をとっていたグーロフは、彼女の傍へ歩み寄ると、無理に笑顔をつくりながら顫える声でこう言った。

――

「ご機嫌よう」

 彼女は彼の顔を見るとさっとばかり蒼ざめたが、やがてもう一ぺん、わが眼が信じられないといった風に、恐る恐る彼の方をふり仰ぎ、両手のうちにぎゅっと扇を柄付眼鏡もろとも握りしめた。

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