ブンゴウメール公式ブログ

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外科室(17/29)

(286字。目安の読了時間:1分) 切ってもいい」 決然として言い放てる、辞色ともに動かすべからず。さすが高位の御身とて、威厳あたりを払うにぞ、満堂斉しく声を呑(の)み、高き咳(しわぶき)をも漏らさずして、寂然たりしその瞬間、先刻よりちとの身動…

外科室(16/29)

(322字。目安の読了時間:1分) 単に、医師の命をだに奉ずればよし、あえて他の感情を顧みることを要せざるなり。「綾! 来ておくれ。あれ!」 と夫人は絶え入る呼吸にて、腰元を呼びたまえば、慌てて看護婦を遮りて、「まあ、ちょっと待ってください。夫人…

外科室(15/29)

(330字。目安の読了時間:1分) でもちっともかまいません」「あんまり大病なんで、どうかしおったと思われる」 と伯爵は愁然たり。侯爵は、かたわらより、「ともかく、今日はまあ見合わすとしたらどうじゃの。あとでゆっくりと謂い聞かすがよかろう」 伯爵…

外科室(14/29)

(366字。目安の読了時間:1分) 「それは夫人、いくらなんでもちっとはお痛みあそばしましょうから、爪をお取りあそばすとは違いますよ」 夫人はここにおいてぱっちりと眼を※(みは)けり。気もたしかになりけん、声は凛(りん)として、「刀を取る先生は、…

外科室(13/29)

(306字。目安の読了時間:1分) 「何を、姫を連れて来い」 夫人は堪らず遮りて、「綾、連れて来んでもいい。なぜ、眠らなけりゃ、療治はできないか」 看護婦は窮したる微笑を含みて、「お胸を少し切りますので、お動きあそばしちゃあ、危険でございます」「…

外科室(12/29)

(362字。目安の読了時間:1分) …という、極まったこともなさそうじゃの」「いいえ、このくらい思っていれば、きっと謂いますに違いありません」「そんな、また、無理を謂う」「もう、御免くださいまし」 投げ棄つるがごとくかく謂いつつ、伯爵夫人は寝返り…

外科室(11/29)

(384字。目安の読了時間:1分) この言をしてもし平生にあらしめば必ず一条の紛紜を惹(ひ)き起こすに相違なきも、病者に対して看護の地位に立てる者はなんらのこともこれを不問に帰せざるべからず。しかもわが口よりして、あからさまに秘密ありて人に聞か…

外科室(10/29)

(341字。目安の読了時間:1分) うとうとあそばすと、すぐ済んでしまいます」 このとき夫人の眉は動き、口は曲みて、瞬間苦痛に堪えざるごとくなりし。半ば目を※(みは)きて、「そんなに強いるなら仕方がない。私はね、心に一つ秘密がある。痲酔剤は譫言を…

外科室(9/29)

(303字。目安の読了時間:1分) 伯爵は前に進み、「奥、そんな無理を謂ってはいけません。できなくってもいいということがあるものか。わがままを謂ってはなりません」 侯爵はまたかたわらより口を挟めり。「あまり、無理をお謂やったら、姫を連れて来て見…

外科室(8/29)

(306字。目安の読了時間:1分) 腰元は恐る恐る繰り返して、「お聞き済みでございましょうか」「ああ」とばかり答えたまう。 念を推して、「それではよろしゅうございますね」「何かい、痲酔剤をかい」「はい、手術の済みますまで、ちょっとの間でございま…

外科室(7/29)

(312字。目安の読了時間:1分) その顔色はいかにしけん、にわかに少しく変わりたり。 さてはいかなる医学士も、驚破という場合に望みては、さすがに懸念のなからんやと、予は同情を表したりき。 看護婦は医学士の旨を領してのち、かの腰元に立ち向かいて、…

外科室(6/29)

(327字。目安の読了時間:1分) そのいたく落ち着きたる、これを頼もしと謂(い)わば謂え、伯爵夫人の爾(しか)き容体を見たる予が眼よりはむしろ心憎きばかりなりしなり。 おりからしとやかに戸を排して、静かにここに入り来たれるは、先刻に廊下にて行…

外科室(5/29)

(303字。目安の読了時間:1分) 脣(くちびる)の色少しく褪(あ)せたるに、玉のごとき前歯かすかに見え、眼は固く閉ざしたるが、眉は思いなしか顰(ひそ)みて見られつ。わずかに束ねたる頭髪は、ふさふさと枕に乱れて、台の上にこぼれたり。 そのかよわ…

外科室(4/29)

(387字。目安の読了時間:1分) 看護婦その者にして、胸に勲章帯びたるも見受けたるが、あるやんごとなきあたりより特に下したまえるもありぞと思わる。他に女性とてはあらざりし。なにがし公と、なにがし侯と、なにがし伯と、みな立ち会いの親族なり。しか…

外科室(3/29)

(391字。目安の読了時間:1分) 渠らのある者は沈痛に、ある者は憂慮わしげに、はたある者はあわただしげに、いずれも顔色穏やかならで、忙しげなる小刻みの靴の音、草履の響き、一種寂寞たる病院の高き天井と、広き建具と、長き廊下との間にて、異様の跫音…

外科室(2/29)

(318字。目安の読了時間:1分) …これのみならず玄関より外科室、外科室より二階なる病室に通うあいだの長き廊下には、フロックコート着たる紳士、制服着けたる武官、あるいは羽織袴(はかま)の扮装の人物、その他、貴婦人令嬢等いずれもただならず気高き…

外科室(1/29)

(427字。目安の読了時間:1分) 上 実は好奇心のゆえに、しかれども予は予が画師たるを利器として、ともかくも口実を設けつつ、予と兄弟もただならざる医学士高峰をしいて、某の日東京府下の一病院において、渠(かれ)が刀を下すべき、貴船伯爵夫人の手術…

桜の樹の下には(7/7)

(287字。目安の読了時間:1分) 俺の心に憂鬱が完成するときにばかり、俺の心は和んでくる。 ――おまえは腋(わき)の下を拭いているね。冷汗が出るのか。それは俺も同じことだ。何もそれを不愉快がることはない。べたべたとまるで精液のようだと思ってごら…

桜の樹の下には(6/7)

(321字。目安の読了時間:1分) 隙間なく水の面を被っている、彼らのかさなりあった翅(はね)が、光にちぢれて油のような光彩を流しているのだ。そこが、産卵を終わった彼らの墓場だったのだ。 俺はそれを見たとき、胸が衝かれるような気がした。墓場を発…

桜の樹の下には(6/7)

(321字。目安の読了時間:1分) 隙間なく水の面を被っている、彼らのかさなりあった翅(はね)が、光にちぢれて油のような光彩を流しているのだ。そこが、産卵を終わった彼らの墓場だったのだ。 俺はそれを見たとき、胸が衝かれるような気がした。墓場を発…

桜の樹の下には(5/7)

(308字。目安の読了時間:1分) 水のしぶきのなかからは、あちらからもこちらからも、薄羽かげろうがアフロディットのように生まれて来て、溪の空をめがけて舞い上がってゆくのが見えた。おまえも知っているとおり、彼らはそこで美しい結婚をするのだ。しば…

桜の樹の下には(4/7)

(365字。目安の読了時間:1分) 桜の根は貪婪な蛸(たこ)のように、それを抱きかかえ、いそぎんちゃくの食糸のような毛根を聚(あつ)めて、その液体を吸っている。 何があんな花弁を作り、何があんな蕊(しべ)を作っているのか、俺は毛根の吸いあげる水…

桜の樹の下には(3/7)

(307字。目安の読了時間:1分) 俺にはその美しさがなにか信じられないもののような気がした。俺は反対に不安になり、憂鬱になり、空虚な気持になった。しかし、俺はいまやっとわかった。 おまえ、この爛漫と咲き乱れている桜の樹の下へ、一つ一つ屍体が埋…

桜の樹の下には(2/7)

(391字。目安の読了時間:1分) どうして俺が毎晩家へ帰って来る道で、俺の部屋の数ある道具のうちの、選りに選ってちっぽけな薄っぺらいもの、安全剃刀の刃なんぞが、千里眼のように思い浮かんで来るのか――おまえはそれがわからないと言ったが――そして俺に…

桜の樹の下には(1/7)

(307字。目安の読了時間:1分) 桜の樹の下には屍体が埋まっている! これは信じていいことなんだよ。何故って、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だった。しかしいま、や…

檸檬(23/23)

(216字。目安の読了時間:1分) そうだ出て行こう」そして私はすたすた出て行った。 変にくすぐったい気持が街の上の私を微笑ませた。丸善の棚へ黄金色に輝く恐ろしい爆弾を仕掛けて来た奇怪な悪漢が私で、もう十分後にはあの丸善が美術の棚を中心として大…

檸檬(22/23)

(270字。目安の読了時間:1分) 見わたすと、その檸檬の色彩はガチャガチャした色の階調をひっそりと紡錘形の身体の中へ吸収してしまって、カーンと冴えかえっていた。私は埃(ほこり)っぽい丸善の中の空気が、その檸檬の周囲だけ変に緊張しているような気…

檸檬(21/23)

(299字。目安の読了時間:1分) 本の色彩をゴチャゴチャに積みあげて、一度この檸檬で試してみたら。「そうだ」 私にまた先ほどの軽やかな昂奮が帰って来た。私は手当たり次第に積みあげ、また慌しく潰し、また慌しく築きあげた。新しく引き抜いてつけ加え…

檸檬(20/23)

(235字。目安の読了時間:1分) 手の筋肉に疲労が残っている。私は憂鬱になってしまって、自分が抜いたまま積み重ねた本の群を眺めていた。 以前にはあんなに私をひきつけた画本がどうしたことだろう。一枚一枚に眼を晒(さら)し終わって後、さてあまりに…

檸檬(19/23)

(274字。目安の読了時間:1分) しかし私は一冊ずつ抜き出してはみる、そして開けてはみるのだが、克明にはぐってゆく気持はさらに湧いて来ない。しかも呪われたことにはまた次の一冊を引き出して来る。それも同じことだ。それでいて一度バラバラとやってみ…